01 | ナノ


がくん、と大きく揺れた車両に年頃の少女とは思えぬ素っ頓狂な声を上げた御帝は強制的に覚醒した脳を余すところ無く活用し、現状把握に努めようと困惑の色に染まる視線を辺りへ滑らせる。がらんとした車内にはやはり人っ子一人見当たらず、擦りきれ草臥れた深緑の座席は安っぽい蛍光灯の明かりを浴び、光沢があるとはお世辞にも言えない古ぼけた質感を湛えていた。

「終点、――です。お降りの方は右側の扉をご利用ください」

ノイズ混じりのアナウンスに促され、窓の向こうに広がる老朽化という抗いようのない現実がじわじわと不可視の影を引き摺りながら蝕んでいるであろう見覚えのない寂れた駅のホームと車内を交互に見比べ、御帝は絶望を宿した眼を伏せた。やってしまった。遂に、寝過ごしてしまった。寝過ごすだけならば未だしも、終点まで行き着いてしまった。海よりも谷よりも深い後悔と両親に対する罪悪感に押し潰されそうな胸を押さえ、ぷしゅう、と空気の抜ける音と共に開いた扉の先へふらふらと向かう。

ああ、母にどう謝れば良いのだろう。「うっかり寝過ごして終点まで行きました、ごめんなさい」などの言い訳じみた謝罪をする娘を叱らなければならない母の気持ちを考える度に足取りは鉛をぶら下げたかのように重く沈んでゆく。母を凡そ考えうる最悪の結果で裏切ったのだ、叱責は覚悟の上である。しかし、十八歳を迎えた娘の好物を作りながらその帰りを待っていた母に精神的な疲労を掛けてしまう事実は錆びたナイフとなって御帝の柔い部分を容赦なく抉った。

来年は受験という名の最大の難関が待ち構えており、上がりもしなければ下がりもしない御帝の成績や進路について頭を悩ませていた母にこれ以上の負担を強いるのは申し訳ないどころの騒ぎではない。出来ることならば、帰りたくない。しかし、帰る場所はひとつしかない。駅構内に繋がっているホームの階段を鉛のように重い足で一段ずつゆっくりと踏み締めながら登り、仄青い溜め息を吐き出しつつ、顔を上げる。

「……えっ?」

幾度か繰り返した瞬きの向こう、そこにはざわめきに満ちた駅の構内はおろか人影すら見当たらず、宵闇にどっぷりとその身を横たえた石畳と煉瓦の街並みが御帝の視界を占領していた。此処は、どこなのだろう。混乱する脳を宥めながら周囲へ視線を遣った御帝は目前に突き付けられた現実に紺の眸を大きく見開いた。喉元がひくりと引き攣り、声にならない悲鳴が磨り潰される。あばら骨に秘匿された柔い心臓は緊張と恐怖によってばくばくと震え、洋菓子店の紙袋を持つ手にはやけにべたつく汗が滲んでいた。

思わず目を背けてしまうほどに目映い月の光を浴びた赤煉瓦の建造物が作り出す暗夜よりも深い影のなか、何かが蠢いていた。白く、しなやかで、美しいとされるもの。咄嗟に後退った御帝の足首をひやりとしたものが掴む。視点を下方に向けると、黒曜石の如く黒々とした深淵を巣食わせる双眸と目が合った。足首に絡み付くは、傷の代わりに痛みを知るか細き女の手。

「捜しましたわ、駒鳥」

艶々と耀くぬばたまの髪を引き摺る裸身の女たちが腰から下を影に飲み込まれたまま、幾重にも身を折り重なりながら蛹を破った蝶が色鮮やかな二対の翅を広げるように、母親の腹から生まれ落ちるように、生白く柔らかな腕を支えに上半身だけでずるりずるりと石畳を這いずっていた。折り重なり蠢く女たちは口元に愉しげな笑みを浮かべ、次々と残雪を纏い春を待つ指先を御帝に伸ばす。

「私たちの駒鳥。女王さまはあなたを待っているの」

「きっとあなたならあの方のお友達になってくれる。女王さまはそれを望んでいる」

「大丈夫、大丈夫よ、誰もあなたを殺したりしないわ。脆弱なる私たちの駒鳥」

影より生まれ出づる女はくすくすと笑みを零し、御帝の足首を強く握り締める。さあいきましょう私たちのお客さま。死ぬまで決して消え失せることのない本能は恐怖である。どこかで聞いたその一文が脳裏を過り、御帝は竦む脚を鞭撻しながら絡み付く冷たい手を払い退け、石畳の道を駆け出した。洋菓子店の紙袋と絵本をしっかりと胸に抱き、前も後ろも分からない闇夜のなかを直走る。

「ああ、どうして、どうして逃げるの。女王さまにあいしていただけるのに。あなたは穢れを知らない無垢の化身なのに」

「私たちの駒鳥、あの夜はあなたのためのもの。さあ女王さまと一夜限りのお遊びを」

御帝の背を追う女たちの毒素を孕んだ甘ったるい声が鼓膜にどろりと垂れ、背筋が震える。二本の腕を器用に使いずるりずるりと蛇のように地を這う艶かしい半身は青褪めた月の光を浴び、阿古屋(あこや)真珠にも似た光沢を放っていた。十人、いや、二十人は居るだろうか。武器のひとつでもあれば形勢逆転も夢ではない数だ。しかし、御帝が手にしているものは銃でもなければ剣でもなく、母が御帝のために用意したフルーツタルトと一冊の絵本だけである。何か、そう、武器と成り得るものを探さなければ――恐怖に浸かった思考を奮い立たせようと唇を噛み締めた時、狭い路地から突如として現れた手に腕を掴まれ、御帝は一層濃い夜を内包した空間へ引き摺り込まれた。