05 | ナノ


「またの御越しをお待ちしております」

店主の柔らかい笑みに見送られ、ラッピングの施された絵本を受け取った御帝は入り組んだ住宅街を抜け、家路を急ぐ人々でごった返す駅の改札を通り、自宅に最も近い駅を経由するであろう電車の到着を待つために地下鉄のプラットホームに向かう。帰宅ラッシュの真っ只中とは思えぬほどに人気のない階段を降り、電光掲示板に表示された行き先と時刻を確認した御帝は駆け込み乗車という最悪の事態を免れたことに安堵の溜め息を吐きながら、ごうごうと風の唸り声が反響するホームの隅で足を止めた。

手持ち無沙汰に視線を下方へ向け、手にしているシンプルなクラフト紙の紙袋を見つめた。長い間探し求めたあの絵本が、手元にある。未だ現実味を帯びぬ事実を反芻し、ゆるゆると浅く広がる幸福に紺色の双眸を伏せた。検索エンジンにキーワードを打ち込み探しても、書店や図書館に足を運んでも、そのような絵本はこの世に存在しないという揺るぎない答えだけが目前に弾き出され、虚しさと悲しみが鉛の如く喉元に詰まる――その悲哀に満ちた堂々巡りから解放されたのだ。これを幸せと呼ばずに何を幸せと呼ぶのだろう。

強風を伴いホームに滑り込んだ車両へ乗り込み、安っぽい蛍光灯が照らすのっぺりと草臥れた座席に腰を掛けた。地下鉄特有の、足元を撫でる生温い空気が黒のワンピースの端をふわりと揺らす。何の偶然か、がらんとした車内には人っ子一人見当たらなかった。動き出した電車はがたんごとんとレールを進むくぐもった規則的な走行音を響かせ、常夜のような地下を走る。形容し難い違和感を咀嚼しつつ御帝は落ち着きのない視線をあちらこちらに彷徨わせ、顔を強張らせた。右を向こうが左を向こうが、人影らしきものは見えない。平日の最終電車ならば未だしも、夕方の電車に有るまじき一種の静寂と緊張感を湛えた車内は異質とも言うべき気味の悪さを透明な膜の中に孕んでいた。

そのうち乗客も増えるだろう――そう自分に言い聞かせ、車両の揺れに身を任せながらスマートフォンの液晶画面へ焦点を合わせる。娘の帰りを待っている母に「もうすぐ帰ります」という短く可愛いげのないメッセージを送信し、過ぎ去る窓の向こうの薄闇をぼうっと見つめた。がたんごとんとレールを走る電車に揺られ、変わらぬ景色に飽き、瞼がゆるりと閉じてゆく。がたんごとん。がたんごとん。次は××、××でございます。お降りの方は右側の扉をご利用くださいませ。スピーカーから流れる車掌のアナウンスが子守唄のように柔らかな温度を以て鼓膜を撫でる。

ああ、いけない。眠ってはいけない。起きていなければ、寝過ごしてしまう。待っている母に心配を掛けてしまう。視界を遮る重い瞼を必死に押し上げてはみるものの、ひたひたと忍び寄る睡魔は思考回路に靄をかけ、世界が輪郭をなくしたかのようにぐにゃりと歪む。睡魔に捕らわれた意識の底、久しく思い出せなかったひとひらの記憶が色彩を取り戻す。


おかあさんは女の子にいいました。きょうはあなたのたんじょうび。ごちそうをたくさんつくってまっているから、おかあさんのかわりにケーキをかってきてくれないかしら。女の子はしかたないなあ、とこまったようにわらって、こくりとうなづきました。ケーキ屋さんはすこしとおいけれど、おかあさんのためならへっちゃらだと女の子はおもいました。女の子はだれよりも、おかあさんのことがだいすきだったのです。


それは「とこよのみち」の前半、誕生日を迎えた女の子が母親にお使いを頼まれるシーンだった。一年に一度しか訪れない誕生日にお使いを頼まれる女の子を不憫だと憐れみながら、大好きなお母さんのお願いならば仕方ないと母の読み聞かせに耳を傾けていた幼い頃を思い出す。もう読み聞かせを強請れるほど幼くはないけれど。母に髪を撫でられていた頃には二度と戻れないけれど。何処かに置き忘れた幼い自分を探す術すら知らないまま、記憶のなかで文章を読み上げる母の声がこぽりと泡になり消えてゆく。眠ってはいけないと思えば思うほどに色濃く伸びる睡魔の影に促され、まるでぷつりと糸を切られた人形のように御帝は意識を手離した。