04 | ナノ


どくりと跳ねた心臓は石畳を駆ける郵便馬車に酷似した速さで鼓動を刻み、肺と気管に拭い去れぬ疼痛を与える。とこよのみち。その文字を鸚鵡返しのようにぽつりと呟く御帝へ夜鶴は人好きのする、威圧感のかけらも見当たらない柔らかな笑みを向け、女性のそれよりも幾分かごつごつと骨張った指を埃ひとつ被っていない背表紙に滑らせた。

「その絵本を作ったのは私の知人なのですが、何ともまあ手先が器用な方でして。銅貨を金に、雨水を甘露に、藁を絹糸に――と変成させるのはお手の物。この店にある品の七割が知人の作り出したものです」

するりと本の合間から厚くもなければ薄くもない一冊の絵本を抜き取った夜鶴は双眸に僅かな仄暗き憂いの色を滲ませながら表紙を一瞥し、驚愕と期待が入り雑じる表情を浮かべた御帝に平然と差し出す。紺の瞳を幾度か瞬かせ、夜鶴と絵本を交互に見比べた御帝はマニキュアなどのエナメル液に侵されていない無垢なる桜色を宿したゆびさきをゆっくりと伸ばし、差し出された絵本を受け取る。記憶の中にあるものよりもしっかりとした紙の感触に形容し難い感動と興奮が不可視の郷愁を伴って体内に満ちてゆく感覚は知らず知らずのうちに薄い水晶体を歪ませた。

赤いスカートの女の子と、丸みを帯びた白いお化け。

読めもしない文字を追い何度も頁を捲り、少女と住人たちが織り成す世界観に浸り、そして臓器を保護する組織の成長と共に何処かへ置き忘れたかつての幻想。それでもなお、表紙に記された「とこよのみち」は色褪せぬまま、御帝の手のなかにあった。忘れてはいけなかった。捨ててはいけないものだった。どうして、置き忘れてしまったのだろう。

「とある世界を一冊の絵本に、をコンセプトに作り出したのがとこよのみちだとか」

「……、夜鶴さん」

表紙から顔を上げ、雑じり気のない紺色で夜鶴を見据えた御帝はこびりついたキャラメルのように喉元へ引っ掛かる言葉を声に乗せ、吐き出そうと唇を開いた。吊るされた鉢のなか、骨組みの魚がかちりと歯を鳴らす。かち。かちり。漂う紫煙が甘ったるい桃の香りに沈み、細胞の隅々にまで染み渡る。ゆらりと首を傾けた夜鶴の透き通った青紫に琥珀色のランプが淡いひかりを射していた。

「この絵本、買わせてください!」

ぼおん、ぼおん、と壁に寄り添い午後六時を報せる振り子時計の文字盤に嵌め込まれた硝子の内側で歯車と黒のスノーフレークがきりきりと音を響かせながら回る。一拍遅れて流れ出したメロディは何処かで聞いた覚えのある、懐かしいものだった。

「お買い上げ有難うございます。お客様に選んで頂けるなんて、この絵本は幸福者ですね」

まるで、御帝の言葉を予期していたかの如く笑みをより一層深めた夜鶴は青い花が揺れる形の良い耳に濡れ羽色の髪を掛け、やんわりと目を細めた。