真新しい革の匂いが漂う黒のシートに背を預け、後部座席から過ぎ去る冬ざれの雨をぼんやりと眺める。褪せた色彩の中に沈む街並みはプラスチックや粘土で構成されるジオラマにも似た、贋物ゆえの無機質さを湛えているように見受けられた。暖房の暖かな空気は温度覚すら消え去るほどに冷えた指先へ再び熱を通わせ、全国各地の天気を告げるラジオの音声はゆるゆると鼓膜を揺らす。傘の手放せない一日となるでしょう。にこやかに告げる女性アナウンサーの声は窓に打ち付けられる雨粒の如く意識の底へ流れ落ちた。

雨の影響があまり感じられない交通量で良かったと安堵の溜め息を交えつつ千崎はハンドルを白い手袋越しに握り、一層黒く沈んだアスファルトの上を進む。彼女が住まう屋敷は古書と歴史の町を自称する芙蓉町の隣、初代女王に因んで名付けられたオフィス街――春宮町の中心に位置していた。ひっそりと身に染み入る静謐さを漂わせた春空のフロスティブルーと聖女の腕に抱かれるあまやかな花の白を基調に建てられた屋敷は周囲を埋める近代的なビルと相俟って、ある種の異質とも言うべき存在感を放っていたことを思い出す。

春になれば、屋敷を取り囲むように植えられたソメイヨシノの硬い蕾が目減りする盛りの時を一秒たりとも逃すまいと言わんばかりにほろりと咲き誇るらしい。形の整った長い睫を伏せながら秘密を打ち明けるかの如く息を潜めて呟いた彼女の声を思い出しつつ、赤土と雨の匂いを排気ガスに慣れた呼吸器官へ満たした。左右に揺れるワイパーの規則的な稼働音が背景に馴染み、鬱屈した灰色に溶けてゆく。

季節毎、年に四回催される園遊会の断片的な視覚情報ならば報道機関による映像で補填されてはいるものの、屋敷の内部へ足を踏み入れる機会など一般人には与えられるはずのない権利である。国の象徴、偶像、かみさま。彼女が愛するものだけで拵えられた箱庭において、その権利を欲しがる者は後を絶たない。それをただの大学生である自分が所有しているなど、許されるのだろうか。

つい最近まで彼女とは何の接点もなかった自分が、当たり前のように彼女の元へ足を運んでいる。思い違いだと片付けるには些か深い好意を向けられている。騙し絵を前にした時の感覚をふいに思い出す、言い様のない違和感がずるりと皮膚の下を這った。

「愛情を享受することって、そんなに難しい話なのかしら」

つるりと磨かれた指紋ひとつないバックミラー越しに秋空の青がこちらを見遣った。驚愕の色を浮かべた緑の双眸が訝しげに細められるさまを眺め、千崎は「女の勘、ってやつよ」と軽快に笑い、方向指示器を傾けた。この通りを抜ければ、そこにはひとりの女のために作られた箱庭が在る。

「あなたは女王が好きなの?」

「……分からない」

「じゃあ、嫌い?」

コヨミは開きかけた唇を閉ざし、ゆるゆると首を振って誤魔化すように視線を窓の外へ遣る。与えられるものを与えられるだけ淡々と受け入れ、ごくりと嚥下することは想像よりも遥かに難しい。愛されている――その実感と共に伸し掛かった不可視の重圧が感情の消化を妨げることを彼女は誰よりもよく理解していた。ゆえに消化しきれるだけの愛情を、好意を、彼女はコヨミに与える。戸惑うことは多々あれど要らぬと突き返すほどではない、手に取った瞬間すうと染み込んでゆくような、形には残らない代わりに内側へ積もり積もるものを。

彼女はコヨミに見返りを求めない。与えたいから、与えている。ただそれだけのことなのだと言いたげに彼女は微笑み、絶望の匂いにまみれた悪夢から救い上げる聖女の声でコヨミの名前を呼ぶ。そして慈しみ深き手のひらでコヨミの目元をゆるりと覆うのだ。あなたは何も知らなくて良いのだと、生きていてくれるだけで私は幸せなのだと囁きながら。

痩せた木々の隙間から春空を絵筆に含ませたような淡い青がちらほらと視界の端に留まり、一時の残像として脳裏に刻まれる。車両のナンバーと千崎の顔を手元の資料と数度見比べつつ確認した二人の守衛によって押し開かれた頑丈な門の向こうには、恩寵と慈愛を孕んだ柔い腕を広げて悠然と佇む花の園が広がっていた。彼女が愛でるソメイヨシノの薄紅はどこへやら、冬の気配に埋もれたまま鳴りを潜めているが網膜に染みる青は雨を引き連れた厚い灰色の下にあってもなお、不変と呼ぶに相応しい美しさを抱いていた。

通路の中央に立ちはだかる環状交差路の右側を進み、来客用の駐車場に車を停めた千崎はバックミラーに映るコヨミを一瞥し、浅い溜め息をひとつ吐き出した。憐憫と同情を織り交ぜたそれは車体を容赦なく打ち付ける雨音に掻き消え、脆い輪郭ごと霧散する。

「可哀想ね。あなたも、女王も」