店の主たる彼が紹介する品々は想像していた通り、世にも不可思議なものばかりであった。 毒々しいワインレッドのパッケージが眼を引く刻み煙草、望む場所へ一度だけ行ける懐中時計、不幸を煮詰めた蜂蜜、クイーンが存在しない灰色のトランプ。縁日の見世物小屋を彷彿とさせる、常識の範疇を越えたノスタルジーを秘める雰囲気はある種の懐かしさを孕むものだった。見てはいけないと理解してもなお、見ずにはいられない。目を逸らすことを本能が許さない。 漆塗りの棚に並ぶ容器に視線を向けた店主は華奢な手をおもむろに伸ばし、左から二番目に位置していた灰色の容器を取った。額縁に似たセピアのラベルには「いろは歌」の文字がじわりと馴染む薄墨によって刻まれ、喉元につかえるような酩酊の灰色が網膜に染み込んでゆく。 「此処ではない何処かにあるひとつの春を閉じ込めたインクです」 「わあ……、綺麗な灰色ですね」 「他にもございますよ、そうですねえ……例えばこちらの花合わせはいろは歌の片割れ。二つは一つ、一つは二つ。まさに背中合わせ。しかし、誰もその事実を知らないのです。春のなかで孵る毒のことなど、誰も知らない方が良いのかもしれませんね」 意味ありげに微笑み、灰色が揺れる容器を鮮やかな――掬い取った匙すらも侵すであろう毒素を湛えた、春の亡骸を養分にほろほろと咲き誇る花のような色を放ったインクの隣へ戻す。そのラベルには「花合わせ」の四文字が印刷されており、これが件の片割れか、と御帝は紺色の双眸を瞬かせた。 「全部夜鶴さんが集めたんですか?」 「所詮は年寄りの道楽と言われてしまえばそれまでの話ですが、飽き性なりに楽しんでおります」 御帝よりも幾分か歳上に見える、二十代の青年を果たして年寄りと呼べるのだろうかという純然たる疑問を飲み込み、御帝は髪の合間から覗く試験管を模したガラスの中でランプの琥珀色を帯びる淡い青の花がゆらりと揺らめくさまを見つめた。花の名前は何だったか。花言葉は辛うじて記憶に残っているが、どうにも名前が思い出せない。 首を傾げ、ううんと唸る御帝に夜鶴はジャムの瓶にも似た、片手にすっぽりと収まるサイズの容器を差し出した。雑じり気のない無色透明の水で満たされた狭い空間の中、鮮やかな色彩を放つ球体の正体を理解し、御帝は思わず息を飲む。どくりどくりと波打つ心臓の鼓動がやけに大きく聞こえ、紙袋を持つ手が引き攣った。 「えっと、あの、作り物……ですよね?」 「これは正真正銘、本物の眼球でございます。不老不死の青年が妹に抉られた右目」 「み、右目」 「触ってみますか?肉体から離れたとは言えれっきとした眼球ですので、生々しい感触が致しますよ」 にこやかな笑みを浮かべて蓋を開けようとする店主を制止し、その場に呆然と立ち尽くす。受け入れ難い現実を目の当たりにした人間は声すら出ないものだと学ぶことになろうとは、神様はなかなかに意地の悪い性格をしているらしい。絶望と恐怖が入り雑じる感覚に襲われつつも白と紫紺のコントラストを見つめ、右目を抉られた青年を思った。身内に手を掛けられる苦しみを彼はどんな気持ちで味わったのか、考えただけでも息が詰まる。 「――ああ、そういえば。つい先日、世間には出回っていない珍しい絵本が入荷したばかりなのですが……お客様、絵本はお好きですか?」 絵本、と呟く御帝に柔らかな人当たりの好い笑みを向けながら夜鶴は眼球がとぷりとたゆたう瓶を元の位置に戻し、不自然とも言うべき深さを湛えた鮮明なる青紫の瞳を細めた。人形の眼窩に嵌め込まれたガラスの虹彩に酷似しているそれをぼんやりと見つめ、もしかしたら、と沸き上がる一抹の期待に唇を噛む。 布団に潜り込み母に読み聞かせを強請っていた帰らぬ日々はかつての幼い自分が作り上げた夢想ではあるまいかと自分自身の記憶を疑うほどに、著者名はおろか物語に関する手掛かりすら得られなかった。このよがいやになったなら、とこよのみちへゆけばいい。ひとよかぎりのまつりへでかけたら、うきよのうさもはれましょう。脳裏に刻まれた活字は比類なき鮮やかさを以て蘇る。もしも、長い間探し続けたあの物語にもう一度触れられるのであればそれ以上の幸福は無いと御帝は思っていた。 いや、あるわけが、ない。 時間を見つけては図書館や書店に足を運び、広大な電子の海に検索を掛け、それでもあの絵本は見つからなかったのだから。諦めに限りなく近い感情をごくりと嚥下し、御帝は紺色の眼を伏せた。 使い道の分からない重々しいタイプライターがどっしりと腰を据えているカウンターの傍らに鎮座する白木の本棚へ向かい、ずらりと並ぶ色とりどりの背表紙に偽物じみた青紫の視線を滑らせながら夜鶴は唇をひらく。ああ、そうだ。干渉を遮断する透き通った円筒のなかに秘匿された青い花の名前は、確か。 「とこよのみち、と呼ばれている絵本なのですが」 |