02 | ナノ


店先に出された青い鳥の看板が目印となっている洋菓子店は最寄り駅より電車で二つの駅を越え、繁華街に程近い駅前から一本外れた裏通りの一角に佇んでいた。くすんだ灰色の煉瓦が組まれた外壁、扉には青薔薇のステンドグラスが嵌め込まれており、客を出迎えるかのように扉の脇で柔らかなセピアを灯すカンテラは鉄砲百合の形を模している。

こじんまりとしたイートインコーナーで学校帰りの学生やOLがきらきらと耀く甘い宝石を頬張り、唇の端に付着した夢の欠片を細い指先で拭い取るさまをぼんやりと眺め、女の子が最も愛らしくなる瞬間があるならばそれはきっと甘いものを食べている時なのだろうなと思った。どこかで耳にした覚えのある曲が会話の妨げにならない程度の音量で流れ、菓子類から漂う甘い香りが喉元を緩やかに撫でていく。

海外の古典文学に登場しそうなオーダーメイドの靴屋を彷彿とさせる懐かしさに胸を踊らせ、ゼラチンに守られたフルーツが鎮座するタルトを保冷剤と共に受け取り、女性店員の営業スマイルに見送られながら店を出る。白い箱を彩る薄紅の小さなフラワーブーケと「happy birthday」の文字が躍るメッセージカードを見る度にそわそわと気恥ずかしい気持ちになった。

頭上に広がる茜色は冬を湛える藍に侵食され、音もなく下りる夜の垂れ絹を静かに受け入れていた。足元をすり抜ける風は容赦なく肌を刺し、早く帰らなければ、と家路に向かう人々の足を急かす。そろそろマフラーとコートをクローゼットから出すべきだろうか。クローゼットの奥でクリーニング店のビニールを被っているであろうコートの行方を気に掛けつつ、記憶に残った道筋を思い起こしながら駅へ向かう。

冷たい風に悴んだ指先を擦り、上着のポケットに両手を忍ばせた時のことだった。ふと視界の端に人工的な明かりを見付け、御帝は足を止める。視線を投げ掛けた先、そこにあったのは「神無堂」と書かれた看板が店先にぽつんと佇んでいる、小さな雑貨屋のような店だった。


色褪せた赤茶の煉瓦と黒い漆塗りの扉が眼を引く店をぼんやりと眺め、はてさてこんな場所に店などあっただろうかと首を捻った。洋菓子店へ向かう際もこの道を通ったはずなのだが。見逃しただけなのだろうと納得しつつ、冷たい風に曝される古い看板を一瞥し、ふらふらと吸い寄せられるように御帝は店の扉をゆっくりと開いた。ぎぃ、と扉が軋む音に少々驚きながらもそろそろと店に足を踏み入れる。室内は煙草の匂いがうっすらと漂い、焚き物をしているのか、百合の芳香にも似た甘いかおりがその中に重く沈んでいた。

肺を圧迫するような匂いだと思う半面、田舎の祖母の家で食べた瑞々しい桃の味を思い出す。桃は魔除けになるから、食べなさい。数え切れない程に皺がたくさん刻まれた手で剥いてくれた桃は都会で食べるどんなお菓子よりも甘く、咀嚼するうちに口の中でふわりと蕩けてしまう。親戚の子供たちは桃よりもカブトムシを追い掛けることに夢中だったけれど、幼い御帝にとって、夏休みとは線香の辛気臭い煙と桃の不可思議な甘さに彩られたものだった。

祖母は元気にしているだろうか、と数年間顔を会わせていない祖母の身を案じつつ、店内をぐるりと見渡す。壁に寄り添う形で設置された棚や中央のテーブルには見たことも無いような珍しい品々が並んでいた。透かし模様の入ったティーカップやソーサー、瓶詰の青い飴玉、ずらりと鎮座する色とりどりの煙草、小さなトランクに横たわり固定された万年筆。鉢を泳ぐ骨組みの魚。これはなんぞやと首を捻りたくなる品を見つめ、御帝は「とんでもない場所に入ったのかもしれない」と己の行動を悔いた。さっさと帰っておけば良いものを、好奇心に負けてしまった。

「何かお探しですか?」

背後から投げ掛けられた声にびくりと肩を揺らしながら振り向くと、いつからそこに居たのか、彼岸花があしらわれた羽織に黒の着物をぴっしりと着付けた黒髪の青年が、細い煙草を片手に微笑んでいた。2メートル程離れた場所に佇むその青年は青紫の瞳を細め、「押し売りをするつもりはございませんよ」と笑う。

「ようこそ神無堂へ。わたくしは夜鶴、この店の主でございます」

「ご丁寧にどうも…」

「お客様がいらっしゃるのは久々なもので、ついお声を掛けてしまいました。ふふ、驚かせてしまいましたね」

夜鶴と名乗るその青年は煙草を近くにあった灰皿の縁に置き、口元に穏和な笑みを浮かべる。戸惑いを隠しきれないまま視線を泳がせる御帝に夜鶴はゆらりと首を傾げた。着物に煙草が似合う人など、明治期から昭和初期の文豪しか思い当たらなかったが、彼にはそのやたらと細い煙草がよく似合っていた。

「袖振り合うも多生の縁、お客様がいらっしゃったのもまた何かの巡り合わせでございましょう。ここは一つ、ご迷惑でなければ店を案内させて頂きたいのですが」

「えっと、その、あまり手持ちがなくて、」

「本当に必要なものは自ずとあちらからやって来るものですから。それに、ここはコレクションの展示場代わりにやっているような店でして…売れてしまうのも、ある意味困りますからねえ」

飄々と物事を躱し、毒にも薬にもならないような雰囲気は近年稀に見る怪しさを滲ませているものの、悪い人ではなさそうだと判断を下した脳に従い、御帝はこくんと首を縦に振った。