06 | ナノ


雪にすらなれない冷えた鈍色の雨が乱雑な世界をしとどに濡らしていた。横断歩道の傍らに佇んだ信号機から流れる古めかしい童謡は群れを成す人々の声と自動車の走行音にずるりと埋もれていく。「あなた、大学生?」という脈絡のない質問を投げ付けた千崎に眉を顰め、コヨミはそっと息を吐いた。

「……そうですけど」

「良いわねえ、若くて。羨ましい限りだわ。あ、右曲がるわよ」

薄汚い鴉の群れに一羽の白い鳩が混ざっている、その表現が最も似合うのではなかろうかと思う程に白のトレンチコートを羽織ったその背中はゴミ箱をひっくり返したような雑踏の中で一際目映い色彩を放っていた。さらさらと視界で揺れる人工的な金色の髪を追いつつ、静寂の文字を知らぬ雨曝しの人混みを掻き分けて先へ進む。

方向感覚を根刮ぎ奪われそうな人の波を芙蓉町方面へ向かって右に横切ると、東京に在住している者であれば一度や二度は足を運んだことがあると推測出来る名の知れた老舗の百貨店がずっしりと腰を据えていた。地下には確か駐車場もあったな、と思い出しながら傘にぱたぱたと弾かれる雨音を聞き流す。零れた吐息は入道雲の如く立ち上り、その場に留まることもないままふわりと霧散した。

「この時間帯なら混んでないと思うけど雨だしね、どうかしら」

灰色に染まった排気ガスが薄氷混じりの雨に溶けていく。百貨店の出入り口に繋がる大理石の階段を上りながら赤い傘を閉じる千崎に倣い、コヨミは飾り気のないビニール傘を閉じて未だ止む気配を見せない鉛色の雨を一瞥し、使い古された自動ドアを通り抜けた。換気が行き届いていないのか、生温い水のような温度を湛えた空気が頬を撫でる。

聞き慣れない店舗オリジナルのテーマソングは壊れたレコードの如く延々と流れ、年会費無料を謳うポイントカードの広告や特売日のチラシが否応なしに視界を蹂躙する。屋外とは異なるざわめきを孕んだ極彩色の喧噪が柔い傷口に爪を立て、受け入れ難い不協和音は確実に傷を抉り、滲み出した血液が言い様のない嫌悪感を伴い内奥を伝う。受け入れ難いが、耐えられないほどではない。乗車するまでの辛抱だと己に言い聞かせ、やんわりと瞼を伏せた。

シルバーグレイの塗装が施されたエレベーターに乗り込み、B1と閉の文字が刻まれたボタンを押した千崎は晴れ渡る秋空の色を映す双眸でコヨミを見遣り、鮮やかな紅が彩る唇に薄い笑みを描いた。品定めをされているのか、それともただの暇潰しか。どちらにせよ、視線の底にある好奇は御世辞にも気分が良いとは言い難いものであった。指先に数匹の蟻が這っているような、言い様のない不快感に苛まれる。

「それにしても、あの女の客が男だなんて予想外だったわ。あなた、余程気に入られているのでしょうね」

「……別に、気に入られているとかそういう関係じゃないですよ」

「あら、気に障った?あのひと、近年稀に見る男嫌いだから珍しいなあと思ったのだけど…」

不躾とも取れる発言や見世物を見るかの如き視線に対して苛立ちを覚えた訳ではないのだが訂正をすることさえも億劫で、ずっしりと重くのし掛かる沈黙を咀嚼する。人が個を持つ以上、すべての評価が一つに定まることは無いだろう。ましてや、この国に身を置く民の一切が彼女を崇拝している訳ではない。そう理解してもなお、「あの女」という言葉が引き摺るどうしようもない穢らしさに吐き気がする。

喉元まで迫り上がった感情をこくんと飲み下し、コヨミは揺らめく水面にも似たあえかな緑の眸に花桃の影を落とした。自分を選んだ理由を彼女は語らない。ただただ幸せそうに微笑み、コヨミをその灰色でじっと見つめるだけだ。彼女は確かにコヨミを識っている。しかし、コヨミは彼女を知らない。液晶画面や紙面越しに見る彼女とコヨミの名を呼ぶ彼女が重なることもなくほろほろと崩れては雨の底に落ちた。ごうん、と独特の浮遊感と共にエレベーターが降下する。骨壷のような四角い鉄の箱のなか、生命の温度を奪う雨の音は聞こえなかった。