銀糸で刻まれた鳳凰が唐紅の空へ飛翔する錦織の袋帯、じわりと染み入るような灰桜で染め上げた柔い光沢を放つ名古屋帯、塩瀬の白無地に矢車草や桔梗をあしらった手描きの染め帯などの素人目から見ても安物とは思えない麗しき絹の海がだらりと畳の上に投げ出されていた。足の踏み場すら見当たらぬ惨状を前に「サラリーマンの年収を軽く超える海だな」と他人事のように思考を巡らせ、月夜は薄っぺらい書類を片手に訝しげな眼差しを室内へ向ける。

白檀と藺草の匂いが染み付く、凡そ洋館に似合っているとは御世辞にも言い難い日本間の中心に腰を下ろした女王はあれやこれやと悩みながら色鮮やかな絹の海を見つめていた。屋敷の一角、女王が所有する衣服を保管する為だけに改装した和室には着物が収まった桐の箪笥や細々とした小物が並ぶ棚が壁に沿ってずらりと配置され、劣化を促す直射日光から守るように既存の窓は壁に埋め込まれている。ゆえに昼間でも薄暗く、雪洞を模した和紙製のランプが無ければ手元を確認することさえ出来ない。

睡眠時間を削りに削って働く部下を尻目によくぞ帯など眺めていられるものだ、こちとらお前が回した書類の不備を見付けてわざわざ持ってきてやったというのに。積年の恨み辛みを込めた嫌味をぐっと飲み下し、まさに着道楽の真髄ここにありといった有り様を先代の女王に重ね合わせたところで。

「何か御用ですか?見ての通り私は忙しいので、あなたと話している暇など持ち合わせてはいないのですが」

帯に向けた焦点をこちらへ合わせることもなく、片割れは早く帰れとばかりに僅かな毒を言葉の端へ滲ませる。喉元まで迫り上がった苛立ちを持ち前の我慢強さと順応力によって意識の隅へ追い遣り、若干草臥れているように見える書類を差し出しながら「印鑑、押し忘れてる」と優しさを取り繕う声色でミスを指摘した。

喩え不条理であろうが荒唐無稽であろうが、彼女が白と言えば白である。この箱庭のなかで彼女に刃向かうことは許されない。彼女の逆鱗に触れぬよう、円滑に事が進めた方が無意味な諍いを引き起こさずに済むと過去の経験を引っ張り出し、月夜はそっと息を吐いた。

「印鑑?執務室にあるでしょう、あなたが代わりに押してくださいよ」

「いや、知ってると思うけどこれは女王が押さないと意味がないんだよ。代理人による捺印は許可されてない」

「印鑑なんて誰が押しても同じでしょうに……はあ、これだからお役所仕事は。後でやりますから執務室に回してください」

不満そうな口振りで吐き出された言葉の羅列に絶句し、これが日本の象徴たる存在で良いのだろうかと嘆く心を宥めながら口論の火種になる言及は避けて通るべきだと判断する。こちらとしては業務に差し支えなければ何の問題もない、部下である自分が敢えて口を出すこともなかろう――だがしかしこの惨状は何事だと言いたげな表情から意思を汲み取ったのか、顔を上げた彼女は水彩画を彷彿とさせる淡い色彩で描かれた染め帯と和紙にも似た風合を醸し出す灰桜の名古屋帯を両手に取り、ふわりと聖女らしい微笑を浮かべてみせた。

「女は美しくありたいと思う生き物なのですよ、誰かの為ならばなおさら」

一片の灰色すら混じらない冴え冴えとした紫紺を僅かに伏せ、月夜は思わず口を噤んだ。幸いにも彼女の逆鱗には触れなかったが、それ以上に触れたくないと避けていた亀裂へ自ら指先を滑らせてしまったと気付き、年甲斐もない己の迂闊さに内心で舌打ちをした。傷と呼ぶにはあまりにもうつくしく、傷痕と呼ぶにはおぞましいその亀裂。間を埋めようにも、時を刻む砂時計の如くさらさらと抜け落ち、女の唇から零れる花の影を漂わせた夜の淵に飲み込まれる。

「あら、どうしてそんなに怖い顔をなさるのです?別に私は何もしませんよ、あの子が生きているだけで幸福なのです。またあの子に会える、それ以上の幸せがこの世にありましょうか」

血を纏う唇は淡い弓張月を描き、睫毛に秘匿された眸には花曇を帯びる情念がどろりと溶けていく。数多のひかりを吸収するアンティークゴールドの耀き、括れを通り落下する砂の色。夜の淵に漂う花を咲かせたのは誰だったのだろうかと目を細めて踵を返し、月夜は毛足の短い絨毯に艶やかな木製のヒールが奏でる重たい音色を響かせた。