押しては返す漣にも似たざわめきに満ちる駅前の雑踏を見つめ、皮膚を湿った手のひらが這い上がるような、言い知れぬ不快感にコヨミはひっそりと眉を顰めた。大学から電車に揺られること二十分あまり、四方をビルに囲まれた道路の中央――どっしりと腰を据える白線のスクランブル交差点では人混みがひとつの塊となって、二度と出会うことはない誰かとすれ違いながらそれぞれの向かう先へ歩を進めている。一際背の高いファッションビルの壁面に掲げられた大型ビジョンから流れる吸血姫ゲルダの新曲MVは通行人の目を奪いつつ、囂(かしま)しい都会の喧騒に溶けていく。

元来、騒がしい場所は不得手であった。人々の声や足音、車が吐き出す排気音、生きる上で避けては通れぬそれらの雑音が徒党を組み鼓膜を揺らす度に気力が目減りする。降り続く雨と灰色に澱む排気ガスの重圧的な匂いが悪夢を連想させ、どろりと胸元に広がる鈍痛が吐き気を誘発した。ファッションビルの一階、テナントとして入っているロックウェルコーヒーの看板を濡らす薄氷が混じった冷たい雨のなか、スクランブル交差点の傍らに据えられた信号機の青、そして車道と歩道を隔てる垣根に咲いた山茶花の鮮明なる色彩が冬の気配に滲んでいた。

忠犬の銅像が居座る、東京に身を置く者ならば一度や二度は利用するであろう絶好の待ち合わせ場所に到着し、スマートフォンに表示された時刻を確認しながら排気ガスに似た色を宿す空の機嫌をひっそりと窺った。雪に姿を変えることもなく、ひたすらに降り続く雨は未だ止む気配を見せない。待ち人と落ち合うために銅像の周りへ屯する人々は所在なさげな表情でスマートフォンをスクロールし、時折視線を外部に滑らせながら流行りの薄い液晶を見つめている。

斯く云うコヨミとて、同じく待ち人と落ち合うために訪れた一人であった。待ち人といっても彼女自身ではなく、彼女がコヨミの安全を考慮して寄越した迎えなのだが、この御時世に何の危険が潜んでいるというのだろう。自ら危険を冒すような言動を控え、インプリンティングされた最低限の予防線を張っていれば大抵の災厄は免れる。わざわざ迎えを寄越す必要はないと主張したコヨミに彼女はただ一言、「あなたが大切なのです」と返した。

大切だから、守りたい。若いあなたは大袈裟だと思うかもしれないがどうか堪えてほしい。そんな彼女の言い分を飲んだ結果、彼女と会う日は必ず銅像の前で迎えを待つようになった。しかし約二十分の待ち時間を傘を差したまま過ごすのも退屈極まりない。交差点を渡った先にあるロックウェルコーヒーで暇を潰すべきか。枯れ葉が引っ掛かるスニーカーの先を見遣りながら思案するコヨミの足元にひとつの影がゆらりと落ちた。

「柏木暦さん?」

雑踏に紛れてもなお、ひやりとよく通る女の声だった。低くもなければ高くもない、害もなければ益も齎さない声だった。怪訝そうに眉を寄せつつ顔を上げるコヨミを見据えていたその女は手入れの行き届いた金色の髪を赤い傘の下に隠し、にこりと人好きのする柔い笑みを唇に描く。こつん。ヒステリックなヒールの音がアスファルトを叩いた。

「……、誰?」

「櫻里に雇われてあなたを迎えに来た運転手」

シンプルな黒のパンツスーツに白いトレンチコートを羽織った、大企業の営業課に勤めるキャリアウーマンもしくは社長秘書といった風貌を持つ女は慣れた手付きで懐から程好く年季の入った革のケースを取り出し、一枚の薄い名刺をコヨミに渡す。明朝体が刻む千崎の文字と目前に佇む女を見比べ、コヨミは首を緩く傾けた。

彼女の気紛れで選んでいるのか、運転手が変わることはさして珍しい話ではない。しかし、女性の運転手が選ばれた日は今まで一度たりとも無かった。生真面目そうな見た目とは正反対にフィルドヨンカのアクション映画顔負けのドライビングテクニックを駆使する運転手が担当した時はさすがに生きた心地がしなかったな、とかつての恐怖を思い出し、ぞわりと背筋が冷たくなる。

「ご理解戴けたかしら?」

「まあ、一応は」

「それは良かった。さて、行きましょうか」

トレンチコートの裾と赤い傘が翻り、耳に響くヒールの音が薄汚れた喧騒に飲み込まれていく。運転手と名乗ったのだから、少なくとも運転は出来るのだろう。せめて安全運転を心掛けるドライバーであってほしいと過去の運転手の大胆かつ斬新なハンドル捌きを鑑みつつ、名字しか印刷されていない真新しい名刺をパーカーのポケットに突っ込み、その華奢な背中を追った。