必要最低限の睡眠すら確保出来ぬまま朝を迎え、別段有り余っている訳でもない気力と体力が根刮ぎ奪われそうな鉛色の雲がずるりと垂れ下がる重苦しい空の下を歩み、コヨミは二限目の講義に出席した。まさか寝起きなのではと疑ってしまう程にどこか眠たげな、緊張感の薄い教授の声から要点を拾い上げてノートに纏めつつ、九十分――そのうちの三十分程度は本筋から横道に逸れた蛇足が占めていたであろう講義が終了すると、一斉に生徒たちはノートや筆記用具を片し始める。

お昼どうする?外に行くの面倒だし食堂行こうよ。購買のパン売り切れてたらどうしよう、今月厳しいんだよね。

己を取り巻く環境や繰り返される日々に苦痛のひとかけらさえも感じていないような表情でくすくすと笑い合う彼女たちの声を聞きながら、圧縮した浅い溜め息をひっそりと排出する。密閉力と保温性に長けているとは言い難い教室のなか、骨の芯からじわりと侵食する冷たさに耐えきれず、熱を失い悴む右手の指先を左手の掌で包み込んだ。冬の寒さに耐えかねた先人の、一年半に及ぶ署名運動というこの上なく地道な活動により四台の電気ストーブが教室の隅に設置されてはいるものの、室内全体を暖めるには些か役不足であるらしく、ノートを取ろうにもペンを持つ手が小刻みに震える始末だ。

暖房機能さえも備えていない、まさに時代遅れと呼ぶに相応しいエアコンは埃を被りつつ、いずれ訪れるであろう夏を待っている。暖房機能の無いエアコンなど存在するわけがないと高を括っていた頃が酷く懐かしい。大学とは手を加える必要がないと判断した箇所には一切金を出さないもので、医学部の講義で時折使用される人体模型の肝臓と腎臓は紛失したまま十年以上の歳月が過ぎている上に、学生から「臓器売買」という何とも人聞きの悪い通称が付けられていると聞いた時はさすがに耳を疑った。

臓器売買どこにあるの?えっ、教授が持って行ったんじゃない?などの会話が交わされている医学部であるとは知らずに進学した新入生の心情たるや。そういえば経済学部の教室には馬の首を模した被り物が晒し首宜しく壁に飾られていたな、と何の為にもならない情報を思い出しながら荷物を纏め、立ち上がる。伸ばした前髪がさらさらと視野を遮断し、知らぬ間に世界の明度がひとつ下がったような気がした。

様々な傷や汚れがこびりついた廊下を行き交う学生の群れに混ざり、そっと窓の下を窺えばベンチに腰を据えて文庫本を開きつつサンドイッチを黙々と咀嚼する教授、何に使うのか皆目見当もつかない真っ白なパネルを三人掛かりでせっせと運ぶ学生、どこからともなく集まった数十羽の鳩に餌をやる老人などの姿が視界に入り、コヨミはそっと息を零した。

雨が降り始めたのだろうか、窓の向こうに広がる世界はスモッグにも似た、どろりと煮詰まった灰色の霞を帯びていた。パネルを持つ三人が素っ頓狂な悲鳴を上げて雨宿りの出来る場所を探し、老人は鞄の中から取り出した折り畳み式の傘を開いて立ち上がり、教授はサンドイッチを銜えたまま文庫本をコートの内側へ避難させて走り去る。おぞましさすら感じるほどに集まっていた鳩は雨を横切るように羽搏き、鉛色に溶けていく。


「ひゃー、雨降ってる!ナギサ傘忘れてきちゃったよ!」

聞き覚えのある、きゃんきゃんと耳に響く高校時代の友人の声が間近に聞こえ、コヨミはゆったりと顔を上げた。講義を終えたばかりであるらしい友人は荷物が入った黒いトートバッグを肩に掛けてコヨミの隣へ並び、寒々しい雨空を大きくぱっちりとした双眼で見上げている。

人工的な緋色の髪と十代から二十代の女性が好む機能的であるとは言えない服装が相俟って彼女はどこにいても目立つというのに、外の景色に気を取られた所為かそれとも寝不足によって集中力が欠けているのか、人一倍賑やかな彼女の存在にまで意識が向くことはなかったようだ。

「……傘なら売店に売ってるんじゃない?」

「おっ、その手があったとは!可愛い傘あったらいいなー!」

雨が凌げるだけの大きさを持った傘であれば何でも良い、というコヨミにとって傘にデザイン性を求める思考は理解出来そうにもなかった。しかし、赤い傘を選ぼうが飾り気のないビニール傘を選ぼうが、それは他者の干渉を許さぬ個人の自由である。平等に与えられた自由に口を出し、自ら顰蹙を買う必要もないと判断を下した脳に従うことにしよう。そもそも誰かに突っ掛かるような気力は残っていないのだが。

「コヨミくんも今からお昼?」

「二限目終わったし、帰るところ」

「えー、ずるい!!ちなみにナギサは五限目まであるんだな!」

「今世紀最大の無駄知識をどうもありがとう」

ふふん、と威張るように勝ち誇った表情を浮かべた友人を奥行きのない眼差しで一瞥し、よくぞ今まで誰にも疎まれずに生きてきたものだと感心する。もはや才能と呼んでも差し支えのないその親しみやすさは一体どこで養われたものなのだろう、と嫌味と皮肉が滲む溜め息を吐き出した。


キャンパス内にぽつりぽつりとある店舗のうち、最も近い位置にある売店の前で友人と別れる。傘を買い求め売店に群がる学生の海にするりと入り込む友人の姿を見送った後、鞄の底に横たわる折り畳み式の黒い傘を開いた。ぽん、という雨空に似合わない軽快な音が白い息と共に冬帝の色を宿す空へ掻き消える。

時刻を確認するためにスマートフォンを起動させ、液晶画面へ注視点を合わせる。その先、表示された数字は午後零時二十分を指していた。「彼女」と交わした約束の時間まで四十分程度の余裕があることを頭に入れ、濡れたアスファルトを踏み締める。傘の表面を雨滴が叩き、銀色に輝く骨組みを伝い落ちては気紛れにコヨミの肩を湿らせた。