遠く離れた場所から甲高い救急車のサイレンがどろりと澱む夜の淵に鳴り響き、水の膜に保護された世界の底をわんわんと震わせる。雨に濡れた重い瞼を僅かに押し上げた先、書店の安物じみた白熱灯を連想させる乗用車のヘッドライトがじわりと目を焼いた。一定の低さを以て唸るエンジンは雨音とサイレンに掻き消され、美しいとは御世辞にも言えない音色を響かせている。俯せのまま、やっとのことで焦点を結んだ水晶体が捉える黒いアスファルトや見る影もなく破損したビニール傘をぼんやりと見つめ、事故に遭ったという紛れもない現実を緩やかに噛み砕いた。

加害者が救急車を呼んだのか、それとも周囲にあるマンションやアパートの住人が闇夜を切り裂く衝突音を聞き付け受話器を取ったのか。どちらにせよ助かりはしないと曇る思考が吐き捨てる。喉にでろでろと纏わり付く血液は凝固し声を妨げ、身体中の筋肉は活動を放棄し、今や眼球すら動かない。アスファルトはどこか生温く、頬を打つ冷えた雨だけが確かな冬の訪れを思い出させた。不思議なことに痛みは無く、辛うじて損壊を免れた脳が死を目前に痛覚を遮断しているのだろうかとらしくもないことを考える。

微かにひらいた唇から隙間風のような呼吸音と共に零れた液体は血液なのか、それを確かめる術は最早どこにも無かった。体温がすう、と引き潮のように体外へ流れ出す。視界の明度が下がり、すべてが仄暗い霞を帯びる。薄汚れたビニール傘の表面に映る回転灯の赤が色褪せ、ぐにゃりと歪み、生と死を溶かした安寧の紺青が満ちる海の底へ壊死した生命がずるりと沈む。

「暦、戻っておいでなさい」




浮上する意識に追い立てられ、弾かれたように飛び起きる。踏み切りの警報機と同じ早さで刻む心臓の鼓動がやけに大きく響き、コヨミは雨に濡れた路上でもなければ神経を麻痺させる終着の青でもない、見慣れた自室の、見慣れたベッドの上で疲れを多分に含んだ深い溜め息を吐き出した。カーテンから差し込む蒼白い月影を一瞥し、枕元に投げ出されていたスマートフォンで時刻を確認する。薄い液晶画面に浮かんだ午前三時過ぎを示す数字に落胆しつつ、再び枕元へスマートフォンを放り投げた。

休息と呼んで良いのか分からない数時間の睡眠に不満を訴えた体が主張する倦怠感を無視し、コヨミはベッドからそろりと降りる。二度寝を決め込もうにも、悪夢に対する僅かな恐怖が睡眠の二文字を掻き消していた。じっとりと皮膚へ纏わり付く冷や汗に嫌悪しつつ、悪夢と云えば人は何を連想するのだろうかと思考を巡らせる。映画やゲームに登場するおどろおどろしい幽霊か、皮膚を這う見た目からしておぞましい虫か。それとも断崖絶壁や屋上から落ちることだろうか。しかしコヨミにとっての悪夢は一般的に「悪夢」に分類されるであろう心的現象のどれにも当て嵌まらなかった。

コヨミが毎夜の如く見続けている悪夢、それは自分自身の死を味わうことであった。何度も何度も輪廻のように巡りめぐって繰り返す悪夢は着実にコヨミの精神と気力を錆びたナイフで削り取っていく。しかし現実味を帯びた死に飲み込まれる寸前、そこはあなたの居場所ではないと語り掛けるような柔く落ち着いた女の声でコヨミは目を覚ます。あまやかな慈愛に浸されたその声は淡い安堵をもたらし、悪夢への耐え難い恐怖と不安をするりと掬い取った。まるでその胸に子を抱く聖母のような、革命に至る聖女の導きのような、恩寵の温度に包まれたうつくしい彼女の声で。

夜に浸かった薄暗い廊下を進み、足音を押し殺しながら埃や汚れのひとつも見当たらない見慣れた檜の階段を降りる。小窓から白々と射し込む月のひかりが僅かに足元を照らしていた。どうやら歯を食い縛っていたらしく、思うように顎へ力が入らない。歯軋りや寝言で家人の安眠を妨害していなければ良いのだが。冬の乾燥に曝された喉がずきりと痛み、コヨミは不快感に眉を顰めつつリビングを迂回してキッチンへ向かった。

夢で見たヘッドライトを彷彿とさせる冷蔵庫の明かりから目を背け、ドアポケットに収納されていたミネラルウォーターを拝借する。どろりとした暗闇に佇む生活感の染み付いた家具や家電を一瞥し、睡眠不足によって引き起こされる頭痛と吐き気を押し殺すように冷えた水を飲み下した。今日も眠れないまま、朝を迎えることになるのだろうか。日常として馴染みつつある体調不良を引き摺り、春の欠片すら見当たらない雪雲が重苦しく垂れ下がる道を歩まなければならないのだろうか。

はあ、と短い溜め息を吐く間にも無情なる時は進む。かちかちと進む秒針の無機質な響きはいつか見た砂時計の速度に似ていた。