冷やかな銀を宿した星の欠片や霞んだ雲すらも見えない、冴え冴えと澄み切った藍色が覆う果てのない夜空には女の薄い爪によって作られた掠り傷のような新月がゆらりと浮かんでいた。煌々と世界を照らすには少々役不足であると言わざるを得ない淡さを湛えた新月を窓から見上げ、月世は椅子の背凭れに身を預けた。金具が軋む耳障りな音を意識の外へ追い出し、喉元に絡み付くあまやかな月下美人の芳香に虚を帯びたがらんどうの眸を細める。

月世は月下美人が似合うね。

妄執と情念で拵えた籠の内側にある色褪せることのない記憶から懐かしい彼の声を掬い上げ、月世は聖女の名に相応しい慈愛が宿る煙水晶を揺らしながら彼の名前を小さく呟いた。人工的な明かりの灯らぬ室内にはすべてをずぶずぶと夜の底へ引き摺り込むような女の黒髪と嘯く声帯を溶かした暗然たる闇が満ち、朧気な朔の月は僅かなひかりで闇の表皮を撫でる。

私を愛してくれたひと。
私が愛した、ただひとりのひと。
縋る人々の綻びた腕を踏み付け、恩寵を望む帰依を裏切り、喩え千の刃に身を貫かれたとしても自分は彼の手を取るのだろう。もう一度、あの日の彼に会うことが出来るならば。烏木で誂えたデスクの上、細い影を形成するアンティークゴールドの砂時計に焦点を結び、月世は薄い花桃の色が滲む唇に新月の曲線を描いた。

幾度となく目にした無機質の色が沈むガラス容器には冬の澱を閉じ込めた灰色が映り込んでいた。緩慢なる動作で手を伸ばし、驚く程に軽いその古びた金色を挟み持つ不変の指先は永劫回帰と再会を希求する。月が盈ち虧けを繰り返すように、咲いては凋む白い花のように、何度でも。

「おかえりなさい、暦」

ことん、と逆さに置かれた砂時計の細い括れをさらさらと通り、空白の底へ溜まる骨色の刻を愛おしげに瞻視(せんし)しながら月世は白い眼瞼をやんわりと伏せた。決して何処にも遣るものか、あなたは私の膝元に在れば良い。私の膝元で生きて、私だけを識れば良い。細胞に浸透する月下美人の香りを肺に満たし、聖女は砂時計の冷たい輪郭を月白の指先でなぞった。