目には見えぬ幻影の春がゆらりと体の芯で燻るかのように腹の底は生温い灰色の空気に満ち、細い指先はじんわりと痺れていた。寝不足の所為か、それとも鉛の空から滲む慈愛に思考が霞んでいるのか、目の奥で蛍光性を含んだ鉱石の欠片がちかちかと瞬く。昼下がりの陽光が垂らす恵みを含んだ柔らかな風が頬を撫で、散り始めた薄紅の花びらがパンプスの先に引っ掛かる。視界を揺らす花は盛りを過ぎた瞬間から死という病に侵され、憐憫の眼差しを向けられつつ恩寵の地へ還るのだろう。

死こそ物事の本質であると笑った幼馴染みならばきっとこの花びらに対し哀れみも郷愁も抱かず、麗しい花の最期ほどいとおしいものはないと微笑んで踏み躙ることが出来るのかもしれない。かつて愛しいからこそ我が手で壊すのだと語ったあの冷えた瑠璃色が青桐は忘れられなかった。

愛しいものは慈しむべきだ。
そう呟いた青桐を見る幼馴染みの眼差しはひたひたと忍び寄る純粋なる嫌悪の影に満たされていたことを思い出す。それは道路の隅に寄せられた鳩の死骸を見るような、ぐずぐずと腐りかけた無花果を見るような、生理的な憎悪から滲み出る色であった。

白くぼやけた桜の花びらが乱雑に散らばっている土を踏み締め、数えることすら億劫になるほどにずらりと連なった桜の樹を見上げる。女王の箱庭を囲むようにして佇んだ桜は重たい灰色に溶けていた。春は死の季節だ。緋の鬼よ、一滴の血を落としたやうな花に、死の春に、お前は愛されてゐるのだ。脳裏を過る、幼馴染みと同じ名字を持つ作家によって執筆された小説の一文を払拭しながら水色の柔らかな包装紙に包まれた白百合を抱え直し、こつこつと鋭利なヒールを石畳に響かせる。

重々しく口を閉ざしたままの屋敷の扉を押し開き、埃ひとつ落ちていない青褪めた大理石の階段をしっかりとした足取りで登る。シャンデリアから零れた淡いセピアが程好く冷えた藍色に射し込み、智慧の色彩を放つ鱗粉が底で揺れた。毛足の長い灰色の絨毯が敷かれた廊下を進み、桔梗が彫刻された金のドアノブへ手を掛ける。ざわざわと騒ぐ心臓を落ち着かせるように浅い呼吸を繰り返し、躊躇と僅かな焦燥を溶かした双眸を柔く伏せた。

手に馴染んだドアノブを回し、六年間通い続けた飴色の重い扉を開く。きい、と小さな悲鳴を上げる扉の先、華奢な体躯を椅子の背に預け窓の向こうを底の見えぬがらんとした眼差しで眺めていたかつての女王の姿はどこにも無い。煢然を孕んだ緩やかな劣化が幻視の花影に滲み、咀嚼し嚥下することすら出来ない哀惜がぎりぎりと胸元を締め付ける。残された者と、置いていく者。どちらが羊皮紙に記された真実を識ると言うのだろう。両者が流した涙を色褪せた天秤に掛けた時、吊り上がるのはどちらなのだろう。

据えられた椅子へ腰を下ろした青桐は嵌め殺しの窓から女王の花園を見遣る。六年の間、母は沈黙に身を沈めたまま父を待ち続けた。必ず帰って来るのだと、裏切ることはないのだと、そう信じていた母の容貌は歳を重ねる毎にぞっと肌が粟立つ美しさを帯び、どんよりと曇った灰色は煙水晶の如き深い切望に満ちる。気丈さを失った母の姿を追う度に生温い水へ身を沈めるような、腹がじんわりと冷える居心地の悪さと共に耳の奥で砕ける硝子の音が響いた。

けれど、母は居ない。
絶望の権化が差し出す手を取った母は花の末期を飲み込み、白い箱にすっぽりと納まる無機の骨となった。こうして彼女が見ていた景色を眼下に望んでもなお硝子の砕ける音は聞こえず、かちこちと時を刻む時計の秒針だけが鼓膜を揺らす。青桐の膝に撓垂れた純潔の白百合からは女の首筋に染み付いた情念と同じ匂いがした。

「母さん、私は女王になるよ。正義をなぞるように女王として生きて、生きて、青に還るんだ」

終ぞ流れなかった哀悼と後悔の涙は傷口から溢れだした水銀と混ざってしまったのだろうか。その果てに、母の姿は在るのだろうか。ソメイヨシノから剥離した血滲みの花びらから視点を逸らし、膝の上で青桐の体温と同化する白百合を見下ろした。母は居ない。父も、まだ帰っては来ない。けれど、生きなければならない。母が愛した箱庭で、女王が守るこの国で、母が信じたひとを待つことが自分に出来る唯一の贖罪であると思った。

「ただ、私は貴女に生きていて欲しかった。どんな姿に成り果てても貴女は私の母さんだから。愛されていなくても、私は貴女を愛していたから」

蜜で潤うかのようにしっとりとした白百合の花冠を形作る薄片に指の腹で触れ、青桐は母の華奢な背中を思い出す。今にして思えば、青桐の記憶にある母はいつも背を向けていた。彼女の手のひらの体温も、その胸の温かさも、青桐は知らない。それでも良かったのだ。生きていてくれるのであれば、それ以上に望むものは何一つ無かった。

「もし、次に生まれることが出来るなら私はまた貴女の娘で在りたい」

穢れのひとつすらもないあえかな白い花びらのように、絶望に身を染めず、尊き青の膝元に還る瞬間を望む女王は在りし日の幸福を夢見て、今日も美しいだけの墓場で呼吸を繰り返す。

智慧に浸した恩寵の鱗をはらりはらりと落とし、綻びた崇拝の手に縋られながら、薄い花瞼の裏に白百合の軌跡を描いて。