彼女が灰になったのは冬よりも濃く夏よりも薄い青を絵筆に取り、空という名の白い紙にゆったりと塗り重ねたような、よく晴れた日のことであった。聳え立つ高い煙突の先から立ち上る、遠く霞んだ煙が春の恩寵に包まれた空に消えていくさまを青桐はじっとふたつの眼で見上げていた。追悼を秘めた黒喪服は冬の爪痕が残る陽光に満ち、ほろほろと散る桜の花びらは色彩を増した風に乗って青桐の前髪を揺らす。

火に焼かれ、灰になっているものは母の魂ではない。母と呼び慕った、美しい器が脆い骨に成り果てているだけなのだと己に言い聞かせながら、十歳の冬に見た悲愴が牢獄の白を湛えたまま青のまぼろしに消えていく瞬間を目に焼き付ける。

死に装束を纏い、白百合の細工が施された棺の中で静かに眠る女王の顔を見てもなお視界が揺らぐことはなかった青桐と同じく、隣に佇んだままぼんやりと煙突を眺めている青年の頬もやはり乾いていた。手のひらでぐしゃりと握り潰される朝露の花の如く純潔の色に埋もれた女の末路を、かつて腕に抱き育てた娘の最期を、彼は温度の無い冷淡な紫紺の瞳で見送りながら沈黙に伏している。

「私は母さんを愛していたけれど、母さんはきっと父さんしか愛していなかった」

九十四代目の女王――不知火の意向により、女王の葬儀は密葬である。身内と、ごく一部の親しい者だけでひっそりと執り行われる葬儀の後、歴代に名を残した女王とその夫が永久の眠りに就いている聖域へと納められ、そして新たな女王の名に血が通う。青年は眩しいものを見たような眼差しで紫紺をやんわりと細め、どうかな、と至極曖昧な言葉を呟いた。

「それは白露しか分からないことだよ、青桐」

「……お祖父さまは母さんを愛していたのか?」

「ああ、愛してるよ。白露は俺の娘だからね」

それ以上の理由なんて要らない。
悲しげな色が底にずぶずぶと沈む深い紫に長い睫毛の影を落とし、祖父は青桐にだけ聞こえるように呟いた。紺を女の小指でとろりと溶かした異質とも言える冬の紫にはどれだけの流せない涙と痛みが溜まっているのだろう。女王に近い血を持っていながら、誰よりも女王に遠い不変のひとは誰を愛し、その双眼に誰を思い描いているのだろう。

「青桐も、青桐の娘も、孫も、櫻里が続く限り俺は女王を見送るよ。誰も置いて行かない」

もしもその人生が本になり、一年が一頁に書き記されるならば、母の本に刻まれた頁数は三十六枚だ。最愛の血を引く娘を置いて三十六頁の歴史は誰の目にも触れることなく深い絶望の匂いが染み込んだ手のひらに収まり、青桐の手が届かぬ最果てへ沈んでいった。

歴代女王の享年と照らし合わせても短命と言える彼女の人生は幸福であるとは言い難いものだった。十八歳で即位し、二十歳で次期女王たる娘をこの世に生み落とした彼女が確かに幸福を感じた瞬間は最愛と過ごす時だけだったのだと、青桐は垂れ下がる春の蒼穹を視線で追いながらそう思う。

「俺は女王の側でしか生きられないから」

幼い青桐の手をしっかりと掴んでいた華奢な白い手が、庇護の温度と共に青桐の手を包むことは二度と無いのだろう。膝に乗せ、欠けたかみさまを朗読してくれた祖父はもうこの世界にはいない。妻の話をする時の、どこか気恥ずかしげな優しい表情を青桐に見せることはない。

女王の足元に跪き、女王に名を与えられ、女王の為に生きる青年が孫としてその不変に映すことは二度と無いのだろう。けれど、確かに青桐はその手に守られていた。真綿の揺籠で眠る子供のように、慈愛を養分に育つ花のように、恩寵に望まれていたのだ。

「青に還る私を見送ってくれ、月夜」

青年の頬に掛かる、六年前よりも伸びたサイドの黒い髪が春の吐息にゆらりと揺れ、終末を知らぬ不変の奥底で色褪せない追憶がひたりと波打った。冷えた紫紺は知恵の青を見据え、聖女とよく似た容貌で幽かに微笑む。本当に恐ろしいのは信仰ですよ。羊水と同じ温度を持った聖女の声が頭の中で反響した。

「どうか、貴女の御代が美しいものでありますように。青桐さま」

彼女が女王になったのは冬よりも濃く夏よりも薄い青を絵筆に取り、空という名の白い紙にゆったりと塗り重ねたような、よく晴れた日のことであった。水銀の先にあなたが愛したひとの骨の欠片はありましたか。そう問い掛ける声は酸素となり、消えていった。