10 | ナノ


春は恩恵をもたらすと同時に、深い夜を引き連れて来るものだ。白の闇が積もった薄氷の下を漂う冬の夜とは対照的に草木や花の甘い香りが肺を撫でる春の夜は女の涙で染めた絹糸のようになめらかでありながら、怨念と情愛が折り重なる長く伸びた黒髪の如く首をするりと絡め取る。

二度と離れまいと言わんばかりに締め上げるその髪は獲物を虎視眈眈と狙う女郎蜘蛛の浅ましき糸にも似ていた。黒髪の艶やかさを、男は気付かない噎せ返る女の匂いを、吐息すら花びらへ変わりそうなほどに儚い笑みを落とす春の血脈が灰色であることを、青桐は誰よりもよく知っていた。

廊下の嵌め殺しの窓から一望出来る裏庭には宵闇に溶けるように咲いた春の花が小さく揺れ、屋敷を取り囲むソメイヨシノの群れは眠りを知らぬまま、天高く固い枝を伸ばしてはぼんやりと霞んだ純潔の欠片を散らした。春は目覚めの季節であり、死の季節だ。眠りが深くなる度に女は美しく、なだらかに、黄泉路へ向かう。それは一年、また一年と、数を重ねていく毎に匂い立つ花の気配を湛えるようになった母を思い起こさせた。

枯れるものが嫌いだった。
壊れるものが嫌いだった。
咲いた花を美しいと思う気持ちはあるものの、待ち構えているであろう末路を考えると気が重く、心はずっしりと鉛のように眠りよりも深い夜へ沈んでいった。幼馴染みは青桐が厭う生命の末路を好んでいたが、ぞわりと指先から這い上がる腐敗の匂いは洗い流せぬ汚れとなって染み付いてしまうのではないかと思考を巡らせる度、青桐はどうしようもない吐き気と嫌悪感に苛まれる。

つるりとよく磨かれた窓から視線を逸らし、かつて父親が使っていた自室へと向かう。八つ目の部屋、桔梗が施されたドアノブに手を遣り、沸き上がる僅かな違和感を飲み込んで青桐は双眼に訝しげな色を浮かべた。普段であればきちんと閉ざされているはずの扉が、人差し指が通る程度に小さく開いていた。

どっぷりと夕闇に浸かる部屋に人工的な明かりは灯されておらず、隙間から室内の様子を窺うことは出来ない。母の近習であるメイドが閉め忘れたのだろうかと首を傾げ、ドアノブを掴み、窓際に座っているであろう女王の姿を探そうと意識を室内へ向けた。

ひゅう、と喉の奥で隙間風に似た音が鳴る。これは何だと答えの見付からない疑問を己に問い掛けつつ、彼女は青と藍の目を見開いた。

弓形に曲がった体、物言わず淡くひらいた唇、閉ざされた白い瞼、肩を滑り落ちて背中へ垂れる艶めいた長い黒の髪。とろりとした光が蝋燭の灯火の如く美しい女の胸元から洩れ出すさまを、静かに佇む底冷えの夜を引き摺った青年が慈悲の混ざらぬ金色の瞳で見つめていた。

華奢な母の体が灰色の床へ力なく投げ出される瞬間を、手のひらに繊細な刃がはらりと涙のように落ちる刹那を、無垢の心臓に内包した少女の笑みをうっすらと彩った青年はいとおしそうな眼差しでとらえ、重たい雨空の刃を一瞥して恍惚が溶けゆく吐息をそっと吐き出した。

金色をすう、とこちらへ寄越し、紺の石が嵌め込まれた薄いナイフに口付ける青年は揺籃に満ちた透明な羊水を思わせる優しい声で青桐の名を呼ぶ。君はすぐ迷子になるね。道案内をしてあげようか、青桐。ぱらぱらと黄ばんだ記憶の頁が捲られ、愛する神の色を持たない青年の存在に名付けられたひとつの結果を彼女は導き出した。

街灯の消えた路を拙い足取りで歩み、あなたの名前は、と問い掛けた幼い青桐に、金の蝶をしなやかな指で弄びながらその夜は確かに答えたのだ。底の見えない闇より覗く、女王をおとした、ぞくりとする程に甘美な死の匂いを漂わせた声で。

「死神、」

「久し振り、ではないね」

「母さんに、何を」

ゆらりと首を傾け、長い睫毛を揺らした青年は落花の愉悦を目元に引く。頬に掛かる髪は白骨に一滴の絶望を垂らしたような混沌と深淵の色を含み持っていた。品定めをする目に、お前はまだ分からないのかと言われている気がして、内側から生じる痛みがぐるぐると腹の底で暴れ回る。声を出せば、濁流の如き災厄の言葉が流れ出しそうだと思った。酷く、気分が悪い。細工の施された刃が放つ鈍色の瞬きが網膜にこびりついて離れない。最愛と共に死んだ美しくも痛ましいひとの声は遠く、鼓膜にはまったりと絡む蜜の胎動だけが響いていた。

「可哀想だね、青桐。もう誰も君を守ってはくれない」

知恵の色が青ならば、死の色は金色だ。最も美しい一瞬を切り取ったあまやかなニンフは薄汚れた末路にその身を伏せ、ステンドグラスの花瓶の縁にだらりと項垂れていた。

「君が愛する神様は人を愛さないけれど、死は平等だ」

在るはずのない、他色に染まることを許さない夜だった。これは、夢だ。夢なのだ。あの夜が此処に、女王が愛した箱庭に存在するなど。瞼を閉じたきり動かない母の姿が凍り付いたふたつの眼に染み込み、高く細い煙突の先から漂う白の煙を思い出す。

「私は許さない、絶対にお前だけは許さない。何があっても、お前の色には染まらない」

私は、母さんみたいになりたかったんだ。強くて凛々しくて、美しさを損わない。そんな女王になりたかったんだ。母さん、どんな姿に成り果てたとしても貴女が生きていてくれるだけで私は幸せだったのに。


「待ってるよ、君が平等たる絶望に飲み込まれるその日を」

一層強く耀いた青へ共鳴するように、窓越しに見えた酩酊の薄紅が懐古の知恵に染まる。この地に根付き、浸透した春の血脈は新たな女王の目覚めを祝福していた。青の腕に抱かれることだけを願い、棺に還ることを望み、生きていく。絶望になど飲み込まれるものか。左側を隠す前髪の下、黒を見据える瞳には犠牲となった色褪せぬ夏が揺蕩っていることを、彼女は知らない。その真実を知るのはただひとり――女王の魂を迎えた彼だけだった。