英青女学院は港区紅葉町に位置しており、校舎は膨大な敷地に幼稚舎、初等科、中等科、高等科の四つが揃っている。明治の初めに創立されたユクスリア派の女子校である敬陽女学院の背を追うように日本初のイルマリア教の學びの庭として創立され、数多くの女王が少女時代を過ごしたことでも有名な女子校だ。一定の水準をクリアする資産を実家が所有し、入学時に受験の名目で行われる学習能力に関するテストや精神鑑定の結果に問題が無ければその重苦しい學びの庭の門は開かれる。

明治という繁栄と進化の時代の面影を色濃く残す赤煉瓦の校舎、はっと息を飲む程に鮮やかな青を宿したステンドグラスが見守るなか神父が唯一神の教えを説く礼拝堂。少女たちが纏う制服のスカーフにはミッドナイトブルーの刺繍糸で「智を捧げよ」の文字が生徒の名前の頭文字と共にはっきりと刻まれていた。

物心つく前から何度も繰り返してきた祈りの言葉――シラフは意識するよりも先に声へ乗り、聖書も暗記には至らないものの、内容は頭の抽斗にきちんと収まっている。自分だけではなく、同じ学舎に集う生徒の誰もが唯一神ルーベンシリアの色をその無垢でありながらどこか悲愴を灯すふたつの眼で追っているだろう。

恵みと恩寵を降り注ぐ太陽のように、ひやりとした夜に柔らかなひかりを放つ月のように、冬を過ぎれば酩酊の春が訪れるように、知恵の神が在ることは当然なのだと青桐はそう思っていた。日本史上最大の戦争、東西大戦と呼ばれる血に濡れた歴史の犠牲となった百一代目の女王は次代に「青を持つ女王は青へ還る」と言い残したのだと祖父から聞いた時、漠然とした安堵が滲み出たことを覚えている。私は青に還るのか。誰に促される訳でもなく、その言葉はすとん、と青桐の内側に落ちた。

小さな箱庭に存在する少女たちは家というブランドの為に生き、血脈というロゴの為に少女を捨てる。透き通る脱け殻を箱庭に残し、鮮やかな血の匂いを引き摺りながら花にまみれた白いドレスに袖を通した少女は上辺だけの誓いを以て自身の意義を亡くす。そうして捨てられた少女たちは在りし日の慈しみと純潔の繭のなかでゆったりと死へ向かうのだ。白いドレスの代わりに櫻里を背負い、誓いの代わりに時代へ名を刻む。それが青桐の役目だった。



春の夕暮れは押し迫る芽吹きの気配に満ち、呼吸をする度に肺へ伸し掛かるずっしりとした重さを感じた。櫻里の家紋にもなっているその花は物言わず、盛りが終わる刹那を人々の目と指先に愛でられつつ待ち続けている。春に喰われた花びらがはらはらと落ちるさまを嵌め込まれた窓から見つめ、青桐は白いスカーフと黒のプリーツスカートを揺らしながら屋敷の書斎へ足を踏み入れた。

夜に喰われた夕暮れの名残が微かに感じられる暗い空の色がカーテンの隙間から射し込み、適度に手入れが施されていた書物のための空間を沈黙の夜に誘っている。バイトが入っていない日は屋敷の書斎から本を一冊選び、母に読み聞かせをするのが青桐の日課であった。何の反応も返さず花のように押し黙る母の真正面に座り、母が好きそうな物語を朗読し、その灰色がこちらを向くことを祈る。完全なる自己満足であり、母のためと言いながらそれは結局己のためにやっていることなのだ、という事実を飲み込んで。

室内に五つほど垂れ下がっているランプのスイッチを手探りで見つけ出し、指先で摘まみを時計回りに回転させ、淡いセピアに染まった室内をぐるりと見渡す。ガラスで作られた本棚はある一定の間隔を開けてずらりと行儀よく設置され、ランプの火屋に刻まれた百合の模様は影となり書物の息遣いが染み付くアンバーホワイトの壁へ浮かび上がっていた。誰が律儀に変えているのか、壁に掛けられた柱ごよみのカレンダーは今日が月曜であることを主張し、その隣に佇むダークブラウンの柱時計は午後五時を指し示している。

三つ分の部屋の壁を取っ払い、書斎として改築したこの空間は先代の時代に作られたものであるらしい。先代の趣向に添うクラシカルなデザインが施された室内は古書の匂いと色褪せた懐古の軌跡に満ちていた。活字を追い、頁を捲り、装丁の美しさや妥協をしない拘りに溜め息を吐く。青桐や歴代女王にとって読書という習慣はもはや趣味ではなく、日常の一部として溶け込んでいると言えよう。

母が好きだった作家の名前を探しながら並んだ背表紙へ視線を彷徨わせるうちに、ふと一冊の絵本の背表紙に目が止まった。青桐は思わず小さな笑みを唇の端からほろりと溢し、するりとその絵本を本棚から抜き取る。何度も読み返すうちに丸みを帯びた角、しっくりと馴染む表紙の手触り。頁を開かずとも暗唱出来る絵本の名を彼女は確かに知っていた。

小説に刻まれた言葉を噛み砕くだけの知識を持たなかった頃の幼い青桐にとって、絵本――「欠けたかみさま」は世界の大部分を占める存在であった。懐かしさに促され、程好く年季の入った表紙を開く。見覚えのある頁を捲り、日本語に訳された物語を色違いの双眼で見つめて郷愁の痛みに吐息を吐き出す。

むかしむかし、遠いせかいのお話です。永遠を知恵とともに生きるひとりのかみさまがいました。

今まで何度この文章に胸を打たれたことだろう。時間さえあれば欠けたかみさまを読み、比類なき神の青が満ちた揺籃の膝元に思いを馳せた。母は青桐が欠けたかみさまを読むことに関しては何も言わず、貴女は欠けたかみさまが好きなのですね、と温度の感じられない灰色を細めるだけだった。

欠けたかみさまを読み聞かせたら、母は喜んでくれるだろうか。たったひとりだけを愛した灰色はこちらを見て、最愛の血を引く娘の、ふたりで決めた名前を呟いてはくれるだろうか。躊躇うようにぐらりと揺れた青と藍を伏せ、幼い時分よりも幾分か小さくなった絵本を片手に持ち、青桐は静かに踵を返す。望みを持ってはいけないと理解していてもなお、微かに射し込むひかりの先へ指を伸ばさずにはいられない。かつて青桐が敬愛した気高き女王は冬に死んだのだ、お前がやっていることはすべて悪足掻きにしかならないのだと誰かが耳元で囁いた気がした。