はあ、と短い溜め息を吐き出し、青桐は湯気が薄雲のようにうっすらと漂うティーカップを両手で包み込んだ。香り立つベルガモットが喉元に詰まった重苦しい鉛を溶かしていく。幾重にも輪を描いて広がる紅茶色の波紋のなか、瞼を伏せて唇を閉ざす自分が映り込んでいた。あれは、一体何だったのか。幻の類であると完結させてしまうにはあまりにも鮮明で、足元に満ちる仄暗い気配は地を流れ出でる黒い水にも、赤土を這う蛇にも似ていた。やがてその蛇は足首に絡み付き、骨に沿って這い上がり、白く柔らかい皮膚を締めながら首筋に毒が滴る牙を立てるのだろうか。

「どうだよ、ちったあ落ち着いたか」

樒は添えられていた星の形をした砂糖を積み重ねつつ問い掛けた。海や夜空とも違う色合いを持つ冴え冴えとした深い青は静かに頷いた青桐を一瞥し、横断歩道を挟んだ向かい側に聳える美術館へ移る。白詰草の薄い花びらと同じ形をした、個性的としか言い様のない造りになっている椅子に腰を下ろしてふわりと欠伸をする彼を見ていると屋敷で祖父が飼っている小さな三毛猫を思い出す。時折何もない場所を見上げては機嫌良く尻尾を立ててごろごろと喉を鳴らし、擦り寄るような仕草を見せるが元々野良であった所為なのか人見知りで、祖父以外には懐かない猫だった。

この幼馴染みが猫と同じだけの可愛さを持ち合わせているとは到底思えないが、気紛れなところは非常によく似ている。ライムグリーンに染まった前衛的なデザインのヘッドフォンから垂れる、ぷつりと切れてしまいそうな程に細く頼りないコードは愛用のiPodへ繋がれているのだろう。

鮮明なる青空と白い浮き雲が描かれた天井から下がる小鳥のシルエットを象ったガラス製の様々なランプはそれぞれエメラルドグリーンや夜空色、ウルトラマリンブルーなどの色に満ち、思い出したように色合いを変化させながらゆらゆらと不安定に揺れている。どういった仕組みで発光しているのか気になったものの、この店がフィルドヨンカ発祥のチェーン店のひとつであったことを鑑み、一先ずは納得した。

「樒」

「あ?」

「お前は死神を信じるか」

今にもつばさを広げて飛び立ちそうなエメラルドグリーンの小鳥が放つ照明を弾くように冷えた青を瞬かせた樒は青桐の顔を見つめ、眉間に浅い皺を刻む。瑠璃色に落ちる鮮やかな翠玉の面影がきらきらと海の底へ沈む宝石の如く揺らめいていた。唐突すぎる質問だったと樒の様子を窺う青桐に彼は銀のティースプーンでくるりとミルクティーを波打たせ、眠たげにもう一度欠伸をする。夜遅くまで起きていたのか、目の下にはうっすらと隈が浮き上がっていた。

「神様がいるんだから死神もいるんじゃねぇの?俺は神様も死神も信じないけど」

「信じないのに、いると思うのか?」

「そうだな、個人的には。つか、いなくちゃいけない気がするわ」

赤と黒のアーガイルがプリントされたカップの縁へ唇を寄せる樒を青桐は怪訝そうな表情で見据えた。前髪から覗く、なだらかな線を描いた額は穢れを知らぬ清らかさを持ち、柔い黒髪の先は日に焼けてうっすらと淡い春光の色を帯びていた。本人の理解すら届かぬ深層では脈々と受け継がれた血が水路の如く巡り巡っているものだと思う。幼馴染みには男しか生きられない籠の鳥のような一族の血が、青桐には女しか生きられない常春の花園の血が、いつか来るその時を息を潜めてじっと待っているのだ。瞼が開く瞬間を待ち焦がれている血はこれから先も永劫に回帰し続ける。

「存在の有無は関係ない、ようは信じているだけで救われる人間もいるってことさ。神様であろうが死神であろうが、本人が信じていれば確かにそれは“在る”んだよ」

「信仰心の問題、と言いたいのか」

「女王も同じだよ。青桐の母親だって、頭ぶち抜かれりゃコロっとイッちまう、ただの人間だ。でも国民は女王を神様だと思ってる。美しくて無垢で穢れも血の色も知らない、平等なる恩寵と愛情を民に分け与える神様だー、ってな。イカれてるよなあ、まったく」

頭の可笑しい国民に崇拝される女王の娘を前に遠慮の欠片も見えない言葉を吐く幼馴染みからそっと視線を外し、確かに彼の言う通りかもしれないなと思った。聖女と呼ばれた百四代目の女王を除き、懐古の香りに満ちた薄墨の歴史に名を連ねる女王たちはすべて人の子である。

果たせなかった鬼退治の噂が御伽噺として伝えられている女王も、冤罪の末に首を切り落とされた聖母も、春に望まれ春を愛した恵みの母も、等しくこの揺籃の土に還った。次期女王である自分も時が来れば同じ場所に行き着くのだろう。ひたひたと忍び寄る終わりの匂いに急かされながら、花と共に没するのだろう。

「俺はお前の幼馴染みだけど有栖川は女王崇拝の家じゃねぇから、櫻里を信仰する気持ちはよく分からない。でも、信者にとっての櫻里は拠り所だ。女王の為なら死ねる奴だっている。…青桐はさ、ルーベンシリアを信じてるだろ?」

「……英青はイルマリア教の学校だからな」

「つまりそういうことだよ、俺が言いたいことは」

けらけらと笑う幼馴染みは青いインクの名残に侵された指先を見つめつつ、息を吐き出すように声を落とす。つるりと磨き上げられた薄い爪の形は穢れなき少女の羽化を連想させる程に美しく、その反面この世で最も危うい影に染まっていると思った。繊細な皮膚を守る角質の下、砕けぬ純潔を彩った薄紅には誰も触れられない。

爪を切る音は花を落とす音に似ている。では花を落とす音は、何に似ているのか。答えの見つからない問いは喉元に引っ掛かったまま、ゆらりと朧気な青白い火を宿していた。