懐古の情念が籠るうつくしいこの世界では時という概念が無いのだろうと、青桐はぼんやりと淡い照明に照らされた絵画を見渡しながらそう思った。飾り気の無い額縁に守られた絵画には向日葵へそろりと手を伸ばす三毛猫や、秋の物悲しさを養分にして河原に咲く剃刀花、親猫にじゃれる子猫が持つ、最も生命に溢れたその一瞬が鮮やかに切り取られている。

混沌を極めた戦後、驚異的な高度経済成長で復興を遂げた日本を代表する日本画家と言えば他でもない、菱山桐生である。男女同権の世に移り変わってもなお、女性の権利を蔑ろにする者も少なからず存在していた。それらを押し退けて幻とまで呼ばれる絵画を描き、現代の日本画の基礎を築いた女流画家だ。名の知れた画家でありながら、今日に至ってもその素性は謎に包まれ、様々な憶測が乾いた絵の具の匂いが漂う虚空を飛び交っている。

「わざわざ付き合わせて悪かったな」

「いんや、別に良いよ。俺も菱山桐生嫌いじゃねぇし」

網膜に染み付くような鮮やかな青を宿した露草と白い猫が描かれた作品を眺めていた青桐の隣に立ち、瑠璃色の眼差しを作品へ向けた幼馴染みは花びらに使用された色素を小声で絶賛しつつ、羽織っていた細身の黒いパーカーの両ポケットに手を突っ込んだ。使われている絵の具の色をカラーコードで説明されても青桐には呪文のようにしか聞こえないのだが、彼が納得しているのならそれで良い。

不知火町の日本国立美術館で催された菱山桐生展は日曜日ということもあり、想像を上回る賑わいを見せていた。やはり人は多いものの、漣の如く押し寄せるざわめきは無い。誰もが白い壁に飾られた悠久の美に意識を奪われ、口を閉ざしている。西洋画を好む幼馴染みさえ菱山桐生の名が付いた展覧会には興味を示し、突然の誘いであったにも拘わらず、渋る素振りを一切見せなかった。

「まあ、お前が菱山桐生のことを知ってるとは思わなかったけどな」

「屋敷にな、この人の絵に似た画風で描かれた肖像画があるんだ」

幼馴染みは瞬きを数回を繰り返し、驚いたようにこちらをじっと見つめる。伸ばした左側の髪がさらりと音も無く揺れ、戸惑いを隠し切れないと言わんばかりに瑠璃色が揺れた。菱山桐生は人物を描かない画家だった。植物と猫だけを描く為に絵筆を取り、後世に残る数々の作品を生み出している。けれど、発表された作品の中に人物画は存在しない。何かを閉ざすように、押し込めたものが流れ出さぬように、彼女は人の形をしたものを避け続けた。

「似ている、というだけで菱山桐生本人が描いたものではないんだ。そもそも肖像画が描かれたのは明治だからな、時代が合わない」

「あー、びっくりした…まあ、そんなもの見つかったらコレクターが大枚叩いてでも手に入れようと必死になるだろうな」

「確かに」

苦笑を浮かべつつ次の作品へ意識を合わせた時、青桐は目を見開いてその歩みをぴたりと止めた。顔を上げた先には、父から受け継いだ藍色と深く沈みゆく青に映る、ぞっとする程に鮮明でありながら比類なき存在感を放つ縹色の枝垂れ桜が永久に咲く酩酊の春を謳歌していた。薔薇の雫を馴染ませたような薄い紅色の唇から浅い吐息を吐き出し、花の重みに垂れ下がる細い枝と縹色の花びらに落ちる春の影を見つめる。

名付けられた題名は縹櫻。
薄青の細かな粒子を纏う花びらは一枚一枚丁寧に描き込まれており、しっとりと僅かに水分を含んだ質感や膠水に溶ける春の甘さがその輪郭から滲み出ているように思えた。感情もボキャブラリーも凌駕するほど美しい何かに出会った時、人は呼吸を忘れる生き物だ。視線を外そうにも意識は固定され、胸の内に空いた隙間に愛しさと喉元を焦がす息苦しさがとろりと零れる。呼吸など要らない。美しいと心から思えた「何か」を見つめるだけの双眼があればそれで良い。

傑作と呼ばれる縹櫻を描いた後、菱山桐生は表舞台から姿を消したと伝えられている。残雪に横たわる寒椿の如く、彼女は画家としての最期を誰にも看取られないまま至高をなぞる絵筆を置いたのだと。この世に在る美しいものを描き尽くした末に自ら命を絶ったのではないかと囁く者もいれば、菱山桐生は既に人の身を捨てていたのだと涙する者もいた。心を打つ残酷性を内包した無垢は今も色褪せることもないまま、少女のあばら骨のように華奢な額縁のなかで永遠を刻む。


鬼の一族の名を持つ色を咲かせたこの桜の美しさは罪であると思いつつ、隣を見ると青桐と共に縹櫻を眺めていたはずの幼馴染みの姿がなかった。樒、と言い掛けて、ぐっと飲み下す。手洗いにでも行ったのだろう。幼馴染みとて子供ではない、高校二年生にもなって美術館で迷子になるという事態には陥らないと信じたいところだが、彼は有栖川の跡取りである。あの日のように、もしも、幼馴染みに何かあったら。考えうる最悪の結果を思い浮かべた青桐の背筋にぞくりと悪寒が走った。

青桐は顔を上げ、人々の中から幼馴染みを探す。彼が見れば「青桐は心配性だな」と御世辞にも穏やかとは言い難い笑みを口元に彩りながら軽口を叩くに違いない。その時は頬を指先で引っ張り、心配させる方が悪いと叱ってやろう。苛立ちよりも焦りが大きくなり、唇を噛み締める。その瞬間、ふわりと匂い立った木蓮の香りに足を止め、青桐は澱んだあまやかさが香る方向へ目を遣った。


夜に出歩いてはいけないよ。
夜が、お前を捕らえてしまうから。


父がいなくなった年の終わり、幼い青桐に言い聞かせた祖父の声が耳の奥でぼろぼろと崩れる。ぼんやりとした明かりが灯る夜のなかでしなやかな指に金色の蝶を遊ばせながら笑む青年の姿が、古びたアルバムの一頁を捲るように記憶から呼び起こされた。咲き誇る死の花の前に佇んだ黒い背と重なり、高鳴る心臓が痛みを訴える。ゆったりと振り向く黒の影に隠れた氷雨の灰色。薄い唇に宛がわれる、細く骨張った白い人差し指。痛む心臓を縛る木蓮の匂い。覚えている、確かに、この気配を、私は。


肩を掴まれ、ふっ、と息を飲む。
青桐、と呼ばれた声が聞き覚えのあるものであったことに安堵し、知らず知らずのうちに込めていた顎の力を抜いた。藍色と青を滑らせると、訝しげに青桐を見つめる幼馴染みと視線が搗ち合った。

「樒、お前、どこに、」

「トイレ行ってくる、って言っただろ、聞こえてなかったのかよ…帰ってきたら青桐がいなくなってるしさ、めっちゃ焦ったわ」

叱るつもりが逆に叱られているとはどういうことだろう。首筋に流れた冷や汗に髪が張り付き、気持ち悪さと疎ましさに目を細めた。どこかで休もう、と促す声に頷き、幼馴染みの後を付いていく。春であるというのに、体の芯は冷水に浸されたようにどこまでも冷えきっていた。何か温かいものを飲もう。そう思いながらちらりと振り返った先、目映いばかりの白を撒く木蓮が展示されていた場所には夜に咲く白百合が飾られているだけだった。