06 | ナノ


芙蓉町から電車で二十分、都心から少し離れた閑静な土地に櫻里は広大な敷地を持つ屋敷を構えていた。周囲には高く聳え立つ柵が設けられ、三ヶ所の門には武器の扱いに長けた守衛が笑みの一つも浮かべずにきっちりとスーツを着込んで待ち構えている。目映い白と、冬が溶けるインクを一滴だけ春の空に落としたような、網膜に馴染む色を基調にした屋敷を取り囲んだソメイヨシノは今が盛りとばかりに咲き誇り、時折ほろほろと女の内側から剥離する感情の如く気紛れに散る。しかしその花びらの一枚一枚さえも、ただひたすらに美しかった。

女王が愛する園に、穢れは要らない。
咲く花は朽ちる気配を見せる前に切れ味の良い花切鋏で尊き命を摘み取られ、淘汰される。春の花だけでなく、雨露を滴らせる紫陽花、ただひとりを見つめる向日葵、ひっそりと揺れる秋桜、白雪に伏す寒椿。女王は四季に彩りを添える生娘の最も美しい一瞬を春の庭に閉じ込める。それこそが女王の箱庭が常春の園と呼ばれる所以であるのだと、人は言うのだろう。


正門の守衛は青桐の姿を視認すると表情を変えずに頭を垂れ、白に金の装飾が施された見上げる程に背の高い門を押し開ける。ぎい、と小さな悲鳴を上げた門を通り、青桐は屋敷へ続く灰色の石畳を踏み締めた。石畳を挟むように整えられた両脇の芝生の中央には小振りの噴水が涼やかな水の音を響かせ、その奥では春光の庭を霞ませながら淡く匂い立つ花たちを庭師が繊細な手付きで摘み取っている。

常春の園に落ちる冬の痛ましさに気付く者が居るとすれば、それは女であると先代は言った。つう、とスプーンの先から垂れる蜜のような、噎せ返る生命の生々しさを孕んだ匂いを女は誰よりも素早く嗅ぎ分ける。男が語る女と女が知る女は根本的な部分から違うことを男という生き物は知らないのです。そう言って、口元に毒を含ませながら微笑んだ聖女を思い出した。

石畳を進み、ホワイトチョコレートのようなマットな色を放つ屋敷の扉を開く。広々としたエントランスには夜を映した黒の絨毯が敷かれ、左右に分かれた大理石の階段は女王に仕える者たちの職場となっている二階へ伸びていた。エントランスの右手には食堂や大広間、パーティーホール、左手の通路を進めばすべて同じ内装で揃えた応接室がずらりと並んでいる。

青桐は包装紙に包まれたニンフを抱え直しながら住居スペースとして使用されている三階へ向かった。あまやかな百合の香りを引き連れ、かつてとある女王が転落の末に死亡したという左側の長い階段をしっかりとした歩調で登る。こつんこつんと静かに響くヒールの音を大理石に刻みつつ、前を見据えた。三階の、右側の廊下から八つ目の部屋。見慣れた景色の中、隙間無く敷き詰められた重たい灰色の上を進む。在りし日の彼女を思い出す度に肺の辺りが鈍い痛みを訴え、水銀にも似た液体が抉れた傷口を隠すようにゆらりと膜を張った。

八つ目の扉の前に立ち、桔梗が彫られた金のドアノブを回す。どくりどくりと脈打つ心臓と共鳴するように荒くなる呼吸を落ち着かせ、普段と何も変わらない表情を取り繕う。扉を開けた先、窓際に置かれた椅子に腰を下ろす女の姿を視界に捉えた青桐は深い藍色に安堵の影を落とし、母さん、と静かに声を掛けた。

少女を模して創られた人形を彷彿とさせる、純潔を塗り固めた黒い髪と、涕涙の空から色素を抜き取ったのではないかと錯覚する程に薄暗い灰色の瞳。真白の肌はしっとりとした白百合の花びらの如き仄かなひかりを纏っていた。後ろ手に扉を閉め、窓の外を見つめている女の膝元に屈み込んだ青桐は紙袋などの手荷物を床に置く。そして、やっと青桐の存在に気付いたのか、ゆっくりとその顔容をこちらへ向けた女に青桐はニンフの花束を見せた。

「屋敷に咲いていない種類の百合なんだ。母さんは百合が好きだから、気に入ってくれたら嬉しい」

花束からニンフを一輪抜き取り、行儀良く膝の上へ置かれた華奢な右手の指に深緑の茎を宛がう。触れるだけでもぷつりと千切れてしまいそうな柔い白に引かれた紅を沈黙を保ったまま見下ろしていた女は冷えた灰色を上方に移し、智慧の青と並んだ藍色を見遣った。空いた左の手のひらで青桐の右頬を包み、女は淡く色付いた唇でただひとりの名前を呟いた。喉の奥がじわりと熱を帯び、醜い傷口を覆う水銀が独りでに流れ出す。ああ、どうして。どうして、あなたは私が知らない場所で人を捨てた美しさにまみれていくのか。春の抜け殻だけを残してあなたはどこへ行くのか。

「父さんはいつか帰って来る。母さんを置いて行ったりしない。だから、母さんも私を置いて行かないでくれ。ずっと、此処に居てくれ」

最愛をなくして以来、年を重ねる毎に美しさを増す女の乾いた冷たい皮膚に頬を擦り寄せた。空白の棺が灰になったあの日、女は一度目の死を迎えたのかもしれない。気丈さを支える柱を失った女は劣化した紙がぼろぼろとその身を崩すように壊れ、今も最愛を待ちながら、女王の墓場である箱庭のなかで花に埋もれている。

ニンフから漂うものなのか、それとも女の内側から溢れるものなのか、思考から食い尽くされるような痛みを伴う百合の甘さに目眩がした。流れ出した水銀が行き着くところには何があるのだろう。そこに女が愛した男の骨の欠片でもあるならば、どんなに幸せなことなのだろう。一抹の悲愴を湛えた痺れが体の芯を蝕み、青桐は沸き上がる激情を嚥下しながら、常春に散る花に酷似した女の美しさのなかでそっと瞼を閉じた。