真夏に登るのは自殺行為にも等しいと話題になるほど厳しい坂道や罅割れが走る苔生した石段を鴫野と共に下り、古書店が軒を連ねる通りを歩む。赤いマジックペンで乱雑にセール品と書かれた段ボールが店先に出され、通りすがりの猫がその中を覗き込んでいる様子や古びた引き戸を開けて退屈そうに欠伸をする店主などを眺めながら、引き戸に貼られた"菱山桐生展"の真新しいポスターを横目に通り過ぎる。幼馴染みを誘おうか。しかし、彼が好きなのは西洋画であり日本画ではなかったことを思い出した青桐はひっそりと溜め息をつく。

「大丈夫?疲れちゃった?」

「……いえ、春は色々と催し物があるなあと思っていたところです」

「ああ、確かにそうだね。青桐ちゃんは賑やかな場所が苦手なの?」

「得意ではありません」

そっかあ、と毒気を抜く緩やかな笑みを浮かべた鴫野は赤茶の瞳に暖かな陽射しを受ける。秋に咲く玉簾の花びらを溶かしたような、うっすらと甘い空気を漂わせるそれは俗に言う、線が細い顔立ちというものなのだろう。車道側に立ち、青桐の歩幅に合わせて歩む鴫野の横顔を見つめ、過去に会った人々の顔と重ね合わせていく。しかし、該当する人物には行き当たらなかった。やはり気のせいだと判断を下した脳に従い、青桐は鴫野に声を掛ける。滲む枯れ葉の匂いと薄い色素を纏う彼は癖の無い髪を安寧の春風に揺らしながら青桐へ顔を向けた。

「鴫野さんはいつから明治館に勤めていらっしゃるんですか?」

「えっ?あー、いつだったかなあ…うーん、思い出せないね…老化かな」

気不味さから視線を落とし、掛ける言葉を選別する青桐に鴫野は「青桐ちゃんは真面目だね」と微笑ましそうに呟く。冗談だと分かっていても、それを冗談として受け入れ、噛み砕く術を持たないだけなのだ。真面目と言えば聞こえは良いが、貼られたラベルを剥がしてしまえば飾りの一つも持たない本性が顕になる。

柔軟性のある思考で物事を見ることが出来ない人間だという事実は自分自身がよく知っていた。誤魔化すように、その先の答えを濁すように笑えばいい。幼馴染みに何度も諭された台詞を反芻しながら青桐は小さく唇を噛んだ。誰にでも出来るはずのことが出来ない。悲しみよりも、不甲斐ない気持ちばかりが胸を締め付けた。騒がしい駅前の雑踏に痛みがどろどろと流れ出す。

「青桐ちゃんは凄いな、僕は真面目さの欠片も無い人間だからさ、時々青桐ちゃんが眩しく見えるよ。真っ直ぐで、羨ましいなあ、って」

「鴫野さんは誠実で実直な方だと思います」

「僕が?はは、嬉しいな。そんなこと言ってくれるの青桐ちゃんだけだよ」

明治館でアルバイトをするようになり一ヶ月、青桐が任されたのは簡単な清掃やティーカップなどの手入れだ。清掃の行き届いた空間を作り上げ、様々な歴史が刻まれたティーカップの美しさを引き出すことは確かに地味ではあるものの、とても遣り甲斐のある仕事だった。

ただ一人の弟子にしか紅茶に関する技術は教えない市松に代わり、休憩時間を利用してマナーや適切な温度を青桐に教えたのは他でもない、鴫野である。分かりやすく、雑学を交えながらも的確に知識を与える鴫野を青桐は敬うべき存在だと思っていた。

市松のように人の気配がしない訳ではなく、鴫野には人が人である為に必要となる確かな温度と、色褪せた季節の匂いがあった。けれど、その白い指先は、他者を安堵させる微笑みは、アルバムに閉じ込められた一葉の白黒写真の如く現実味のない空気を湛えている。曾てあったはずの過去を見ているような、彼の内側はうっすらと物悲しい郷愁に満ちているのだろう。


「改札まで送ろうか?」

「花屋に寄りたいので…。いつもありがとうございます、鴫野さん」

傾き始めた陽が汚れたアスファルトを照らし、橙色の絵の具を薄めたような色彩が視界を染めた。肌に纏わりつく駅前の喧騒に目を細め、鴫野は青桐に制服の入った紙袋を渡し、「じゃあ、気を付けて帰るんだよ」と微笑を投げ掛けながら花屋の前を通りすぎる。人混みに紛れ、消え入る華奢な背中を見送った後、先程鴫野が通りすぎた花屋の扉を押し開く。


からん、と空虚な音色を奏でたベルに顔を上げ、艶やかな黒髪を引っ詰めた店員がいらっしゃいませ、と控えめな笑みを浮かべる。華やかな容貌と色彩を持つガーベラ、細かく小さな白い花びらが愛らしい霞草、ぽってりとした佇まいでこちらを見遣る胡蝶蘭など、数え始めたら切りが無いほどに陳列された花は静かに青桐を迎え入れた。様々な花の香りが混ざったあまい香りと茎や葉の青みを帯びる匂いに包まれ、はあ、と浅い溜め息をついた青桐は店の奥に鎮座する冷蔵室へ視線を向けた。

紅を乗せた小指を花びらの上へ滑らせたような、なめらかな淡い線を描いた百合を見つめる。ニンフ、と名付けられたその百合は櫻里の屋敷には咲いていない種であった。母は、喜んでくれるだろうか。店員に包装を依頼し、カーディガンのポケットから使い慣れたスマートフォンを取り出した。幼馴染みの名を探し当て、愛想の無い文面のメールを送る。花束を抱えた店員に代金を支払い、薄紅と橙色の薄い包装紙に彩られたニンフを受け取り、ジャスミンに似た深く沈み込む香りを飲み込みながら青桐は花屋を後にした。