ランプの処理を済ませ、再び窓を押し開いた市松は短い髪をさらさらと蜂蜜色の風に揺らしながら門の傍に寄り添う桜のアーチを見下ろした。はらはらと重みに耐えかねた薄紅が灰色の石畳を汚している。少女の爪と同じ色を宿した花びらはまるで指先から流れる血を薄めたような淡い影を湛えていた。時が過ぎれば色を崩し、最早誰の目にも留まらないであろうその花びらは刹那の美を以て群れを成す。桜は純潔すらも喰らう。

物心つく前から、青桐は時折青い桜の夢を見た。網膜に焼き付いて離れない鮮明なる智慧の色を持つ花をぼんやりと見上げ、ただひたすらに誰かを待っている。辺りに人の気配はなく、誰かを待たなければならないという観念だけが青桐をその場に縫い付けていた。

女の毒を含まぬ花びらがはらはらと落ち、ひとつの青に染まっているはずのそれは萼を離れた瞬間からインクブルーやミッドナイトブルーなどの様々な青に変わる。焦げ茶のローファーの先に引っ掛かる花はオリエンタルブルーを宿し、ああうつくしいな、と溜め息を吐き出したところで毎回目を覚ますのだ。

頬を撫でる春風に青へ傾く意識を引き戻され、所詮は夢だと己に言い聞かせながら青桐は垂れる髪を右耳へ掛けた。視界に映る桜は一般的と言える薄紅色であり、海の向こうの国で最も尊いとされている色はどこにも見当たらない。曾ての女王にも宿っていた知識の色は市松が愛するひかりの庭には無かった。


「桜が咲いたね」

「……春ですから」

「君が初めてこの明治館へ来た日も、そう、春だった。お祖父さまに手を引かれた君の姿を私は昨日のことのように思い出せる」

微かな笑みを唇に描き、青桐は青と藍を下方に落とす。父が居なくなった翌年の春、己の存在を主張するかの如く花を天に伸ばしたこの桜のアーチを祖父と共に歩いた。屋敷に咲いている見慣れた桜から漂うものとはまた違う匂いがぞわぞわと背筋を駆け抜け、心細いような、息苦しいような、形容し難い感情に苛まれた幼い青桐は祖父の手を強く握り締めたのだった。

「市松さんが選んでくださったティーカップ、何だか勿体無くてまだ使えていないんです」

「"月"は私が選んだ訳じゃない、"月"が君を選んだのさ。私は存在する為の緒たる名前を与えただけだよ」

黒くすっきりとしたラインを彩る藍色の縁取り、華奢なハンドルには黒銀で蔦の模様があしらわれ、覗き込んだカップの底には夜に浮かぶ三日月のような細く青白い曲線が描かれている。そのティーカップを市松は"月"と名付け、幼い青桐に手渡したのだった。その日以来、眺めることはあれど、"月"を紅茶で満たすことは出来ないままでいる。

「市松さんは、ティーカップに付けた名前を覚えていらっしゃるんですか」

「ふふ、覚えているとも。特に思い出深いもの、そうだな、"開幕"や"鬼式部"、"存在意義"…他にもたくさんあるんだが、残念ながら語るには時間が足りない」

あの日、青桐を出迎えた彼女は昔と何ら変わらない姿のまま此処にある。ようこそ、明治館へ。君を歓迎しよう、青桐嬢。投げ掛けられた言葉の柔らかさはしっとりと指に馴染む春に飲み込まれ、やがてその春は記憶のなかに咲いた桜に捕食される。春が流す血は何色なのだろう。

「さて青桐嬢、普段よりも少し早いがそろそろお帰り。人の子を惑わす夜が来る前にね」

バイトの終了時刻である十七時までには一時間ほどの空きがある。給料を貰っている以上、空いた一時間を最大限に利用して清掃やティーカップの手入れをするべきなのでは。思考を巡らせ、黙り込んだ青桐を眺めながらくすくすと笑った市松は「私が良いと言うのだから、良いのさ」と目を細めた。融通のきかない人間だと呆れられても仕方無い性格であることは青桐自身が誰よりも理解しているが、雇い主の厚意を無下にするのも如何なものか。


「……では、お先に失礼します」

「ああ、気を付けて帰るんだよ」

緩やかに微笑んで白く華奢な手をひらひらと振る市松へ会釈をし、青桐はこつりこつりとヒールを響かせつつ部屋を後にする。藍色の廊下を左へ進み、曲がり角に位置している更衣室代わりの客間で私服に着替え、制服を紙袋に仕舞い込んだ。白いシャツにサスペンダー付きの黒いショートパンツ、その上に丈の長い黒のカーディガンを羽織った自分の姿を鏡で確認する。紙袋とバッグを片手に持ち、乱れた髪を手櫛で直した。

父の部屋に生ける花を駅前の花屋で買おう。季節の花をあれこれと考えながら人気のない廊下に出た時、秋の夕暮れにも似た穏やかさを感じる声が青桐の名前を呼んだ。

「鴫野さん」

視線を上げた先、赤茶の幼げな丸い瞳をこちらへ向けてにこりと人に好かれそうな笑みを浮かべた青年、鴫野が佇んでいた。Vネックの薄いカットソーにインディゴのジーンズという、どこぞの大学生かと見紛う服装に身を包んだ彼は秋を溶かしたような暖かみのある色合いの髪をさらりと揺らす。紅茶の買い出しを終えたのか、片手にはトランクのデザインが施されたシンディアルファンの紙袋がぶら下がっていた。

「やあ、今から帰るの?」

「はい。市松さんが帰っても構わないと仰ってくださったので、ご厚意に甘えようかと」

「奇遇だね、青桐ちゃん。僕も駅の方に用事があったんだ。駅まで一緒に行こう」

青桐が返事をするよりも先に紙袋をさりげなく預り、歩き出した鴫野は空いた片手で呆然と立ち尽くす青桐に手招きをする。優男にしか見えない鴫野をまじまじと見つめ、どこかで見たことがある顔だと思った。しかし、頭の抽斗を探しても答に繋がる糸の先すらも見つからない。早くおいでと語り掛ける手に急かされ、人の話を聞かない住人ばかりだとひっそり溜め息を吐きつつ、鴫野の背中を追った。