足音を吸収する毛足の長い藍色の絨毯が敷かれた階段を登り、屋敷の主が待っているであろう部屋へ向かう。壁に掛けられた額縁の中にはツーサイドアップの勝ち気そうな少女と無表情のままこちらを見遣る少女が並んでいるものやら、モノクルを付けた女性が膝に座る猫を撫でているものなど、様々な写真がアンティークの色を帯びる小さな空間に収まっていた。

どれもこれも古めかしい白黒やセピア色の写真ばかりである。市松の知り合いだろうか、こちらも白黒であるため色までは判別出来ないが、サーカス団の団長宜しく奇抜な出で立ちをした青年と、奇妙な服装で青年の傍らに佇む市松が写っている写真も飾られていた。市松は一体何歳なのか、それを聞いたところで彼女は曖昧な笑みを浮かべて形の良い唇を閉ざすに違いない。

閉じ込められた歴史の一片たちから視線を逸らし、青桐の右目と同じ藍を宿した階段を登り切る。黒いパンプスのヒールがかつりと小気味の良い音を廊下に響かせた。祖父のヒステリックな足音を思い出す。よりによってヒールを履かなくても良いのでは、と青桐は思うのだが、祖父は自身の身長に強いコンプレックスを感じているようだった。

どちらかと言えば男性らしい身長の父に似た影響なのか、青桐は高等科に進学した時点で既に祖父と同じ身長にまで成長していた。複雑そうな表情を浮かべた祖父を見て肩を震わせながら笑っていた先代の姿は忘れられない光景の一つとして青桐の内側に残っている。脚立代わりに使われるのは不本意極まりない話だが、青桐には身長に関することで苦労したエピソードは無く、安っぽい慰めの言葉さえも見付からなかった。


ティーカップの保管室である部屋のドアをノックし、胸元で揺らめく青薔薇のコサージュの位置と濃灰色の襟元を正す。御世辞にも機能性に優れているとは言えない制服だが、雇い主たる市松から渡された制服を着ない訳にもいかない。コサージュから垂れる白のパールを視界の端に捉えつつ、室内から聞こえた返事の後、青桐は金色に輝く取っ手に手を掛けてゆっくりとドアを開いた。

「失礼します」

開いたドアの先、ずらりと壁に寄り添う、カップの高さや大きさに合わせてチェス盤のように一つ一つのスペースを区切った棚に収められたティーカップを愛しげに眺める市松は青桐を見つめ、うっすらと口元に笑みを形作る。詰襟のブラウスに彼女の名と同じ模様の着物を合わせ、華奢な肩に黒い羽織を掛けている彼女は闇を救い取った瞳をやんわりと細めた。

「自室を整理をしていたら珍しいものが見つかってね」

「……珍しいもの、ですか」

「この世に二つとない、奇妙でありながら痛ましいほどに美しいものたちだよ」

おいで、と手招きをされ、無表情のままそっと歩み寄った青桐は市松の視線が指し示すテーブルに冷えた意識を向ける。金の細工が施されたダークブラウンのテーブルには小さな黒のトランク、見慣れないデザインのランプが静かにこちらを見据えていた。トランクの中央に刻まれた白薔薇の刺繍は銀糸、ランプのタンク部分にはどろりと翳る灰色のオイルが凡そ八分目まで満ちている。

「トランクを開けて御覧」

促されるままトランクのベルトをはずし、留め具が軋む音を聞きながらシルクのクッションに守られた一本の万年筆を見下ろす。深く鮮やかな金色の、神秘性を内包した猫の目が精巧にボディへ描かれた万年筆だった。細い光の筋が輝く金色は高潔なる黒猫を彷彿とさせ、青桐は思わず息を飲んだ。

「触ってみるかい、青桐嬢」

沸き上がった好奇心に突き動かされながら頷き、恐る恐る万年筆に伸ばした青桐の細い指先を拒絶するかのようにその金色はぱちぱちと瞬きをする。えっ、と声を出した青桐の傍で市松が笑った。

「猫目の万年筆だよ。特別な、名前は何だったか…ああそうだ、ペン先を"夜色のインク"に浸せば面白いものが見られるらしいんだが…残念なことに知人はそのインクを売ってくれなくてね」

袖口から取り出したマッチを慣れた手付きで擦り、先端に立つ火をオイルが染み込んだランプの芯に近付け、素早くホヤを被せた市松は金色の瞳をじっと見つめている青桐の名を呼んだ。釣られるように顔を上げた青桐の藍色はランプのなかでゆらりと咲き誇る炎の桜を映し、青桐は猫目の万年筆と同じタイミングでぱちぱちと瞬きをした。

「藍銅鉱のランプ、美しくも儚い桜の花の形をした炎が灯るランプだ。見て御覧、青桐嬢。灰色のオイルはまるで情念と妄執が溶け込んだ女の血にも似ているだろう」

言葉では言い表せない美しさだと思った。猫目の万年筆、藍銅鉱のランプ。幻想とノスタルジアを秘めたそれらの品は目には見えぬ隔たりのなかから零れ落ちたものであった。人の手が触れてはならない、懐古の美しさ。それは蜜であり毒であり、刃にも慈悲の指先にもなる。お気に入りの本を読み切った瞬間のような、ずき、と疼く甘さを咀嚼する余韻に溜め息が出た。

「この二つを君に譲ろう」

「……え?…え、あ、駄目です市松さん、私、頂けません。私が持っていて良い代物では」

「高等科進学の祝いさ、遠慮せずに貰っておきなさい。まあ、知人を口説いて夜色のインクを譲って貰わなければならないから、渡すのは先の話になるんだが」

「あの…市松さん…」

有無を言わさない威圧が滲む笑みに声を遮られ、青桐は暫し視線を彷徨わせた後、ありがとうございますと素直に頭を垂れた。贈り物をされるのは幾つになっても慣れるものではない。胸に広がる申し訳なさと気不味い感情を噛み締め、青桐は藍色を伏せた。