生命の息吹と目覚めの気配を孕んだ、噎せ返る春の匂いがした。見上げた先、蔦が絡まる門に寄り添う、その年の春を食い尽くすかのように咲いた淡い薄紅の桜が幾重にも重なる花びらを暖かな風に揺らす。この国の春を食い尽くす存在があるとすれば、それは桜だと思った。春の暖かな色を、香りを、草木が萌ゆるざわめきを咀嚼した桜は盛りを迎えた女が発するある種のあまやかさにも似た毒に染まる。

ずっしりと左手に食い込むスーパーの袋に眉を顰めつつ、制服として支給された黒いコルセットワンピースの裾を揺らしながら青桐は右手で門を押し、春を捕食する花のアーチを潜った。体力には自信があったのだが、合計三キロの薄力粉や四つの無塩バター、牛乳、フルーツなどがこれでもかと言わんばかりに詰め込まれた袋をぶら下げたまま、嫌がらせのように急な坂道が多い町を徒歩で往復するのはさすがに辛い。

奥へ行けば行くほど住民にマッターホルン、エベレスト、モンブランなどの異名を付けられる坂が各所にダンジョンの如く待ち構えるこの町は芙蓉町二丁目、賑やかな駅前から少し外れた場所にある地区であった。

本の街とも、本の楽園とも呼ばれている古書店が軒を連ねる通りはごく一般的なアスファルトで舗装された道が続いている。だが、二丁目と三丁目の境にひっそりと佇む人気のない苔生した細い石段を上がると閑静な住宅街へと続く道の第一関門たる恐怖の坂がこちらをじっとりと睨み付けていた。

青桐がアルバイトとして週に二日のシフトを入れている店、「明治館」は何の偶然か、マッターホルンやエベレスト、モンブランを越えた先に聳え立つ洋館であった。石段を登り第一関門を抜け、苦行としか思えない坂をひたすら進み、明治館へ辿り着いた頃には既に足腰から悲鳴が上がっていた。荷物の重さには耐えられても関節にのし掛かる負荷だけは無視出来ない。

赤煉瓦の外壁、ランプブラックの重々しい扉、四季折々の花々が美しく咲き乱れる庭。この洋館だけがまるで過ぎ去りしかつての記憶を留めているような、胸元に爪を立てられる痛みにも似た深い郷愁を内側に秘めていた。忘れ去られたものに対する懐かしさが春の霞に溶けて景色の一部となっていく。流動する甘さを湛えた空気はまさに春爛漫といった美しさと狂気に満ちている。

ほう、と溜め息を吐き出す。
アネモネ、カトレア、カランコエ・ウエンディー、芝桜、沈丁花。それぞれ思い思いの場所を彩る春の花は櫻里の屋敷に咲く艶やかなソメイヨシノや枝垂れ桜には無い、植物らしい土の匂いと沸き上がる生気を孕み、麗しき春風のヴェールに包まれていた。


「お帰り、青桐嬢」


聞き慣れた声に名前を呼ばれ、青桐はきょろきょろと辺りを見渡す。視界がぼやける程に暖かな陽気が降り注ぐ光の庭にも、蔦が絡まる門の向こう側にも、彼女を「青桐嬢」という名称で呼ぶ人物の姿はどこにも見当たらなかった。なんだ、空耳か。人間として至極全うな結論に至った青桐の視界にひらりと目映いばかりの白がはためき、青桐は形の良い顎を上げ、誘う白を追い掛ける。


「市松さん」


屋敷の二階、ティーカップの保管室となっている部屋の窓際に佇んだ黒髪の女――明治館の主、市松が開け放った窓から細い腕を出し、指先で摘まんだ白いハンカチを揺らしていた。藍色を細め、どう対処するべきかと思案する表情を浮かべながら青桐は市松の切り揃えた短い髪を見つめる。


「珍しいものを見せてあげよう、青桐嬢。こちらへおいで」

「…買ったものを冷蔵庫に入れたいので少々お待ち頂けますか」

「睡蓮にでも任せたら良い、どうせ暇を持て余しているのだから」

「鴫野さんから期間限定の"ルーベンシリア"と"芙蓉"を買う為にシンディ本店へ行く、とメールが届きましたが」


つまらなさそうに吐息を吐き出して窓際の木枠に腰を掛けた主から視線を逸らし、青桐は静かにランプブラックの扉を開く。円形状になった市松模様のホールには大小様々な透明感のある青や青で構成されたステンドグラスのカンテラが垂れ下がっていた。陽の光を受け入れる窓には植物のシルエットが彫り込まれ、古びた本が詰め込まれた本棚は壁を占拠し、ホールのほぼ中央に黒檀のテーブルと白い猫脚のソファーが向かい合う。

奥へ続く通路を通り、右手の、白を基調に内装が整えられたキッチンに足を踏み入れる。十人程度であれば余裕を持って作業が行える広さを持つキッチンの棚には名前を覚えることすら億劫になりそうな数の紅茶の缶がずらりと並び、壁にはなめらかな光沢を放つ真鍮のフライパンや鍋が掛けられていた。

紅茶の缶は眺めているだけでも目の保養にもなる。紅茶専門店シンディアルファンでは毎月多種多様な茶葉をリニューアルデザインの缶と共に発売しており、開けてみるまで中身が分からない仕様になっている遊び心に溢れたシリーズやら、一年のうち一度しか店頭に並ばない限定品まで幅広く取り扱っている。春季限定品である"ルーベンシリア"と"芙蓉"の今年のデザインが楽しみだった。

どっしりと腰を据えたシルバーの冷蔵庫のドアを開き、手早く牛乳や生クリーム、フルーツ、若干柔らかくなってしまったバターを収める。シンクの下、収納スペースとなっている空間に薄力粉やグラニュー糖を置き、ぎしりと嫌な音が響く腰を擦った。早く湿布を貼りたい。年寄りのようなことを考えつつ、草臥れたビニール袋を三角に纏めながら青桐は右頬に落ちるぬばたまの黒髪を再び耳に掛けた。