01 | ナノ


このよがいやになったなら、とこよのみちへゆけばいい。ひとよかぎりのまつりへでかけたら、うきよのうさもはれましょう


まだランドセルすら背負っていなかった頃、一日の家事を終えた母が添い寝をしながら読み聞かせてくれた絵本がある。

いかにも子供が喜びそうな、メルヘンタッチのお化けと赤いスカートを穿いた女の子が仲良く手を繋いで月明かりが照らす路を歩いている表紙だった。子供の記憶など青空に浮かぶ白い雲の輪郭よりも曖昧なもので、その絵本のタイトルを御帝は一文字も覚えていないが、とても不思議な話であったと曖昧かつ当てにならない脳は記憶している。

おどろおどろしさを児童向けに可愛らしくカバーした死神や妖怪、気難しい知識の悪魔、紳士的な吸血鬼などが登場し、主人公である小さな女の子を「とこよのみち」と呼ばれる世界へ招待する話だ。

空にはぼんぼりと南瓜が浮かび、街を彩る明かりは空にある南瓜と同じ形をしたランプに入った人魂で、石畳が続く路を挟んだ左右には怪しい店が建ち並ぶ。女の子はその街に軒を連ねる店で様々なキャラクターと友達になったり壮大な冒険をしたり、成長した今となっては有りがちなファンタジー物だと理解できるが、サンタクロースが髭を生やしたお爺さんだと信じて疑わなかった御帝はその絵本に強く惹かれた。

布団へ入ると読み聞かせを母にねだり、暇さえあればその絵本のページを捲って、読めもしない字と可愛らしいイラストを見つめていた。御帝は本当にそれが好きね、と呆れた表情で笑う母の顔を幾度となく見た覚えがある。

けれど、いつの間にか子供が玩具で遊ぶことをやめてしまうように、小学校に入学した頃からその絵本に触れる機会も少なくなった。学校という一つの世界を知り、名前で呼び合える友達が出来て、薄情にも絵本を過去のものであると切り捨ててしまったのだろう。実家のどこかに仕舞い込んだのか、それとも年末の大掃除などで母が古ぼけたぬいぐるみなどと一緒に処分してしまったのかさえ知らないまま、遂に彼女は18歳の誕生日を迎えた。

18歳、18年、216ヶ月。
キッチンから聞こえる食器同士が微かに当たる音と夕方のニュースをすらすらと読み上げる女性アナウンサーの落ち着いた声を聞き流しつつ自分自身が歩んだ軌跡を数え、18年という年月は存外短いものだったな、と思った。幼い頃には想像することさえ出来なかった年齢を人生に刻んでも、世界を構成する要素が変わる訳ではない。今までがそうであったように、これからも淡々と歳を取り、あっという間に老いていくのだろう。

「歳を取ったらね、誕生日なんて嬉しさの欠片もないただの日常よ」

溜め息を吐いて父のシャツにアイロンを掛けていた母を思い出す。そして誕生日が嬉しいと思えるうちが花、と付け足されたことも思い出す。母と同じ台詞を我が子に言う日が来たらどうしよう。未だ見ぬその日への不安を拭い去る手段を御帝は知らない。


リビングの奥に据えられたテレビは世界各地で起きた事件や事故の情報をいつもと何ら変わらない様子で視聴者に伝えていた。高校時代の集合写真を切り取ったものと思われる、殺人事件の被害者となった女性のあどけない顔写真を眺め、私にとっては誕生日でもこの女性にとっては命日なのだという事実に瞼を伏せる。

もし私が死んでしまったら、一人娘の誕生日を祝うため腕に縒りを掛けた夕食を作っている母は枯れ果てるまで泣くだろうと御帝は思った。今日は早めに仕事を終わらせるからと笑っていた父は涙を堪えて、誰もいない場所でひっそりと涙を溢すのだろう。自分が死ぬ時のことを想像するにはまだ早いけれど、残された人の方が本人よりも苦しいに違いない。遣り切れない気持ちを背負ったまま、生きていかなくてはならないのだから。


「ねえ、御帝」

白いタオルで濡れた手を拭きながらリビングに顔を出した母に名前を呼ばれ、顔を上げる。母の日に贈った花柄のエプロンを使ってくれていることに自然と頬が緩んだ。

「悪いんだけど、ケーキ屋にタルト取りに行って来てくれない?あのほら、青い鳥の看板のお店」

「いいけど…何かあったの?」

「ローストチキン焼いてるんだけどね、ちょっと手が離せないのよ」

誕生日にお遣いへ駆り出される羽目になろうとは。面倒だと思わない訳ではないが、無駄に時間を持て余すよりも母の役に立つべきだと判断を下した御帝は笑顔で頷き、安堵したような表情を浮かべる母からタルトの代金を受け取った。母には普段から苦労を掛けているのだ、これぐらいのことは快く引き受けよう。


「墨染で予約してあるから。気を付けてね、何かあったらすぐに連絡するのよ」

「はあい、行ってきます」


代金を入れた財布とスマートフォンを忍ばせた白のポシェットを斜めに掛け、玄関の脇に設置されている棚から取り出した黒いパンプスを履く。樹脂製のヒールが主流となりつつある昨今では珍しい、磨く毎にしっとりとした光沢を帯びる木製のヒールを持つパンプスは彼女のお気に入りだった。

慣れた手付きで扉を開け、視界を染める鮮やかな茜色の下を歩き出す。枯れた樹木の匂いと、靴の下から伝わる枯葉の乾いた感触に移り変わる季節を思った。今年もまた冬が来る。はあ、と吐き出した息が茜色の空の先で白く霞むさまを眺めた。早くタルトを買って帰ろう。辻に佇む黒猫がこちらを見つめてにゃあと鳴く。近所では見掛けない子だ。逃げ出した飼い猫なのだろうか。威嚇されて終わりだとは理解しているものの、芸術と呼ぶに相応しい毛並みの誘惑には勝てなかった。許されるならば、触りたい。下心を隠しながらもう一度辻の方向に視線を向けたが、夜に溶けるような黒を持つその猫はどこにも見当たらなかった。