夜を飲む | ナノ


花びらのように幾重にもかさなった林檎は艶々とした光沢を放ち、ナイフでカットしたそれを口に運ぶと、熱を持った蜂蜜の匂いに隠れるブランデーの香りがふわりと広がった。ブランデーの微かなアルコールの匂いは決して不快なものではなく、むしろバターと蜂蜜のこってりとしたしつこい甘さを中和する為には必要不可欠な存在だ。さすが店の看板メニューを謳うだけはある。

「少し変わったな」

真正面の席に腰を掛けた兄が呟いた言葉に釣られて顔を上げると、穏やかな瞳でこちらをじっと見つめる兄の姿が視界に映った。表情は相変わらず固いが、みちるを見据えるその眼差しは決して険しいものではなく、何となく気恥ずかしい気持ちになる。

「何が変わったの?」

「雰囲気が柔らかくなった」

「…そうかしら」

黒い革の手袋に包まれたしなやかな指でカップを取り、ヘーゼルナッツを砕いた時のような香ばしいかおりを漂わせるコーヒーに口を付ける兄は長い睫毛を伏せ、目元だけで笑う。喉仏が浮いていて、手のひらも平均的な成人男性とほぼ同じ大きさで、華奢とはいえ少なくとも、みちるを好きだと言う琥珀色の青年よりは男性的な体つきをしている。みちるが心から嫌悪する要素を兄は持っているのに、みちるは兄に触れられても何の気持ち悪さも感じなかった。

何故だろうか、と疑問に思うことは今まで何度もあったけれど、兄の優しげな眼差しを見る度に、彼が「有栖川栞」というひとであるから平気なのだろうと思った。

「それに、とても綺麗になった」

兄の口からそんな言葉が出るとは思わず、みちるは黒曜石の眼を僅かに見開いてフォークを持つ手を止めた。兄は何でもないような顔でコーヒーを啜り、店内に流れる静かな時を楽しんでいる。違和感と蜂蜜の甘さを押し流すように、冷めかけたアッサムを飲み込んだ。

「お兄様、」

顔をあげて小さく首を傾げる兄が嵌めた革の手袋の下には生涯消えぬ爛れた過去がある。私はみちるの兄だから、みちるを守りたいよ。そう言って微かに笑った兄の穏やかな瞳が今もみちるの記憶に焼き付いて離れなかった。私なんか守らなければ良かったのに。そう言えばきっと兄は悲しそうな顔をするに違いない。

「お兄様はいつも私のことばかりね」

「私はみちるの兄だからね」