寄せられる過度の期待は鎖よりも重く、ずっしりと身体にのし掛かる。私のことなど何も知らない癖によく言えたものだ、と鼻で笑えるほど彼女は強くなかった。愛想笑いで誤魔化すことには慣れていたが、期待と羨望の眼差しはどれも重苦しく、逃げたい気持ちはいつも彼女に付いて回る。

幼い時、それこそまだ物事の善し悪しが曖昧だった頃から、彼女はこの狭い世界に逃げる場所など有りはしないのだと理解していた。当主という足枷からは逃げられても彼からは逃げられないのだ。それは彼と出会った時に決まっていた運命であり、何があってもそれだけは変わらない。変わることを彼は許さない。彼を身に宿す代償に色素と、人間として生きる上で最も大事な何かを失い、彼女は生きている。


「なあ浅緋、それ面白えの?」

「静かにしろ」

古びた巻物を広げ、真新しい帳面に内容を書き写しながら浅緋はぴしゃりと櫟を冷たく突き放した。紙は劣化するものだ。何も読み取れなくなる前に、蔵に眠っているすべての巻物や書物の中身を新しい紙に移さなくてはならない。机に向かい、さらさらと筆を動かしつつ険しい表情で巻物を睨み付ける浅緋の背後では櫟がつまらなそうに畳に寝転がっていた。

「それも当主の仕事?」

「…ああ」

「めんどくせえなァ、当主様ってのは」

確かに面倒くさい仕事だ。
古いものから順に書き取っているが、紙魚に食われていたり破れていたり、文字が滲んでいるせいで読めない部分も多い。祖先が築いてきた歴史を後世に残すことも当主が行うべき執務の一つだと浅緋は思っている。だからこそ、読めない部分は他の書物と照らし合わせながら書き進めるという地味な作業を寝る間を惜しんで行っているのだ。

「当主としての義務だ。義務は果たすべきだろう」

掻き上げていた雪のように白い髪がさらりと落ち、頬に掛かる様子を眺めながら櫟は浅緋の細い背中に抱き付く。鬱陶しそうにこちらを見上げてくる緋色の瞳は冷やかな怒りを秘めていて、出会った頃から何も変わらないその温度に安堵する。

少し力を込めたら折れてしまいそうな程に細い背中に背負っているものは櫟が想像しているよりも重いものだ。それでも浅緋は一人で立ち続ける。期待や羨望を押し付けられる痛みや悔しさを飲み込み、前を見据える。

色素の抜けた白い髪から漂う甘い百合の匂いに櫟は小さな溜め息を吐き、首筋へ頬を擦り寄せた。

「浅緋が嫌いなもの、全部俺が壊すよ。浅緋さえ幸せならそれで良いんだ。浅緋の邪魔をする奴は概念ごと壊してやる」

「…私ひとりの為に?馬鹿馬鹿しい、物騒なことを言うな」

「浅緋以外はどうでもいいんだ。死のうが生きようが、好きなようにすりゃあいい」

破壊神とはいえ、櫟も神のひとりに数えられる存在だ。神として長い時を生きる櫟には人間の価値というものが全く分からない。浅緋以外の人間はすべて同一、等しく無意味なものに見えた。きっと、浅緋が「壊してこい」と言うだけで櫟は何の躊躇いも無くすべてを破壊するだろう。浅緋の為に、浅緋が穏やかに生きられるように。破壊を司る櫟が壊さぬように守る“唯一”は浅緋なのだ。

「…お前は馬鹿だな、櫟」

「浅緋、俺は」

「嫌いだよ。お前のそういう所が」

お前は私を殺しもしないが生かしもしないね。そう呟いた浅緋は首筋に頬を埋める櫟の金色に輝く髪を指先で梳き、残された時間の先を思った。