行く水 | ナノ


いま恋をする‐5

秀徳高校から離れて、紗枝の自宅。

彼女はベットに腰掛けて、頬をゆるめながら電話に耳を当てていた。

膝の上にはうさぎの抱き枕。落ち着かない様子でぬいぐるみを抱えたり、毛並みをいじったりしている。


「今日も練習だったんですよね」

『ああ。先ほど終えた所だ』

「そうですか、お疲れ様です」

『別に疲れてなどいないのだよ』


疲れてないはずないのに。


もしかして気を遣ってくれているのかな。

そう思ったら、かすかに笑い声が漏れた。


『なぜ笑う』

「いえ…その、嬉しくて」

『嬉しい?』

「緑間くんとこうしてお話出来て、すごく嬉しいです」

『…ふん』



それから少しの間、お互いの近況を聞き合った。


緑間は大会のこと、紗枝は期末考査のことを話した。

どちらともそれぞれ集中すべきことがある。


きっと会えるのはその後だ。


その後…あと…?


そう思った時、紗枝は言わなければならないことを思い出した。


「あの、緑間くん」

『何だ』

23日は開会式。その前に少しだけ会えたりしないだろうか。

そう思い、抱き枕を抱く力を強めた。

「私、大会を見に…」


言いかけたその時だった。


『真太郎君っ!』


明るい声が紗枝の口を止めた。

ばっと携帯から耳を離す。


『…なっ、おいやめろ!』

『えー、いいじゃない。ねえ電話誰からなの?』


そこまで聞こえて、急に聞き取れなくなった。手で通話口を押さえたのだろう。


紗枝は声も出ない様子で、携帯を見つめている。


今の、女の子の声だったよね。

しかも彼を下の名前で呼んだ。

…ということは、かなり親しい仲…?


そういえば彼が女の子と一緒にいるところ、見たことなかった。


紗枝の胸の辺りにぐるりと何かが渦巻く。


…何だろう、この気持ち。

前にも似たようなことが一度だけあったような。

でもこんな、こんなに…重苦しいものだったかな。


『…すまないがまた後でかけ直す』

しばし声が聞こえなくなってのち、緑間は口早にそう言った。



茫然としていた紗枝は慌てて携帯に耳を当てた。

それから口を開こうとした。

「…っ…」

待って、そう言おうとしたのに。

まだ大会に行くって言ってないのに。


だけど、口が動いてくれなかった。


『今日も一緒に帰ろ!』

最後に女の子の声がして。


通話は、切れた。


「…」


機械音だけが向こうから聞こえる。

彼の声も、女の子の声もしない。


紗枝は携帯を握る手を力なく下ろす。

「…っ」

胸の辺りの服を握った。制服のリボンがくしゃりと音を立てる。


何だろう。

この、押しつぶされそうなほど暗くて重たい気持ちは。


さっきまでつながっていた場所で、彼は女の子と一緒にいる。


「…緑間くん…」


抱き枕をぎゅうっと抱きしめた。顔を埋める。


今、どうしてる?

今の女の子って誰なの?



こんなに複雑で重苦しい気持ち、どう扱ったらいいのか分からない。



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