あれはいつのことだったろうか。
明確な日にちは覚えていないが、とにかく天気のいい日だった。
腹が立つほどきれいで、真っ青なグラデーション。
雲は一つも浮かんでいなかった。
俺は絵画を見ているような気分で、いつもより近くにある空に手を伸ばしてみる。
実際は、高層ビルの屋上からと、地上からの空との距離は、そう変わらないのだろう。
宇宙は大きく、広いのだ。
でも、地上から見る景色は高層ビルや大きな建物に邪魔されている。空は狭く見える。
逆に、その邪魔をしている高層ビルの上から見れば、建物に邪魔をされることはない。

俺はきっと、空を眺めるのが好きなのだろう。空が、好きなのだろう。

腕をふらふらと動かして、筋肉を引き伸ばしめいいっぱい空に向けて腕を上げる。
ぎゅっと空気をつかんでみる。手のひらには何も感触はない。
空には手が届かなかったものの、割と気分はよかった。

38階建て、高層ビルの屋上。俺はそこにいた。
しかも、フェンスを乗り越えたその先の、30センチ弱ほどの幅しかない場所に両足を揃え、気を付けの姿勢で立っている。

あと一歩踏み出せば、俺は死ぬ。

この真っ青な空を眺めながら、地面へと落ちていく。
俺の頭は割れ、体中の骨が折れ、折れた骨が臓器に突き刺さり、肉は裂けて血が出る。死ぬ。
これから俺が生きていくよりも、そっちのほうがよっぽど充実しているように思えた。

自殺しよう、と決めたのは今日だった。
生きるのが面倒くさくなった、それだけだ。
この先、生きていてもいいことはない。楽しいこともない。
何にも興味がわかないのだ。
物事にも、ものにも、動物にも、人間にも、自分にも。
すべてがどうでもいい俺に、いいことなんか起こるはずがない。
生きているだけ、無駄だ。
遺書というものは書いていない。面倒だからだ。
大体、書くことが思いつかない。

俺はフェンスに寄りかからせていた体を軽く持ち上げ、体を起こす。
そのまましゃがみこみ、丁寧にスニーカーの靴紐を解く。靴下も脱いだ。
微妙に冷たいコンクリートの上に、裸足でいるのはなんとも不思議な感覚だった。
俺はゆっくりと立ち上がる。
心地よい初秋の風が、俺の頬を撫でる。
顔を上げ、一面に広がる真っ青な空を眺めながら、目を閉じた。

俺は驚くほど落ち着いていた。
今までに感じたことのない、穏やかな気分だった。

「何してるの」

背後から、いや、左斜め後ろあたりだろうか。
声がかかった。もちろん、知らない声だ。
俺は一応、声のするほうに少し顔を向けた。

少年だった。

小さな椅子に腰を下ろして、大きなキャンパスに絵を描いているようだった。
アイロンのかかった真っ白なシャツ、地味なチェック柄のズボン。
見覚えがあるような気がしたので、おそらく付近の高校の制服だろうと思った。
お前こそ日中にのんびり絵なんか描いてていいのか、とも思ったが、面倒なので口には出さない。

「死のうとしている」

簡潔に答えた。
すると、そいつは軽く笑い声を上げた。

「はは、やっぱりか」

筆は動いたままで、視線もキャンパスのままだった。

「どうして死ぬの?」
「生きるのが、面倒だから」
「何か嫌なことでも?」
「特に、なにもない」
「そう」

そいつはまた小さく笑った。愉快そうにも見えた。

俺はてっきり、絵を描くのに邪魔だとか、目の前で死なれるのは不快だとか、とにかく邪魔にされ追い出されるのかと思っていた。
しかしそいつは全く邪魔にもせず、俺が自殺をするとわかっていても何も言わず、むしろ鼻歌でも歌いだしそうな柔らかな雰囲気を醸し出していた。

「今日は天気がいいね」そいつはまた話しかけてくる。
「そうだな」少し面倒くさい、と思った。
「自殺日和だね」そう言って、自分で笑った。

変な奴だ、と内心溜息をつく。
絵を描くやつってのは、みんなこんななのだろうか。
まぁそんなことは俺には関係がない。
さあ死のう、と半分足をコンクリートから外した。

「待って」

落ち着いた、しかしよく通る、優しい声だった。

「…何」

引き止められるなんて思ってもいなかったので、思わず止まってしまった。

「僕、君を描きたいんだ」

ずっとまともに振り向かず、そいつの顔を見ていなかった俺は、ようやくちゃんと振り向いてそいつの顔を見た。

はじめて、視線が合う。

彼は、高校生にしても幼いくらいの顔付きなのに、物腰は柔らかく、どこか大人びた雰囲気のする少年だった。
彼は目を細めて優しく微笑む。
形のいい唇が、ゆっくりと弧を描いた。
人に微笑みかけられたのなんか、いつぶりだろうか。
ぼんやりとそう考えた。
彼の色素の薄い髪が、太陽の光できらきらと輝いていた。
細く柔らかそうな毛先が風にあおられ、踊る。
背後はあの真っ青な空だった。
作り物のようにきれいな彼のほほえみと、作り物のような真っ青な空。
まさに絵画だった。

「描き終ったら、死んでいいよ」

俺はただ、一枚の絵画に見とれていた。


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -