text | ナノ


 同じクラスの坂名要はいわゆる保健室登校者というやつで、教室の窓側、一番後ろの席はいつも空いていて、私は入学式以来、その姿を見たことがなかった。入学式に見たと言っても、体育館の一番後ろにひっそりと立っていたのを、遠目から見ていただけであって、しかもそれが坂名要という人物だったことはそのあとで知ったこと。しかし、それでもそこに立っていた彼は、女の子みたいに細い体と、少し長い前髪が印象的な男の子だった。いかにも冷静そうな、感情がないようなその横顔は、とても気配が薄かった。

「坂名? ああ、あの人。病気がちで、あんまり授業に出られないらしいわよ。」 
「そうなの?」
「あんまり知らないけど。そういう噂。」
「ふうん。」

 そんな話をしたのは、一日がかりの終業式が終わり、学校中の生徒がこれから始まる夏休みに思いを馳せて、帰宅し始めているときだった。

「坂名がどうかしたの?」
「ううん、別に。どうもしないんだけどね。」

 ただちょっと気になって、と、そう返せば、友人兼クラスメイトである千佳子は、面白そうににんまりと笑った。憧れるような長身に、二つに束ねた綺麗な黒髪をもつ彼女は、小学生から続けている吹奏楽部所属。

「それじゃあ私、部活行くから。」
「うん。がんばってね。」

 千佳子と違って帰宅部である私は、そのあと、そっと、保健室を覗いてみた。
 放課後の学校というのはまぁなんとも静かで、時々、吹奏楽部の楽器の音や野球部のバットとボールがぶつかる音が校舎に響く。その時も、カキンという気持ちのいい音のあとに男の子たちの歓声が耳に入ってきていた。
 扉をそっと開けて覗いた保健室は、保健室だというのにクーラーがかかっていなくて、けれど白いカーテンがふわりふわりとはためくぐらいの風が通っていた。
 結果から言ってしまえば、坂名要には会えなかったのだけれど。
 保健室の中をうろうろしていた私を、通りがかった先生が不思議(不審に?)思って声をかけてくれたところによると、彼は終業式が終わったのと同時に帰ってしまったそうだった。終業式には出席していたらしい。

「彼に何か用だった? 伝えておこうか?」
「いえ、なんでもないんです。」
  
 それで暇になってしまったわけで、何をするわけでもないのに、屋上に行った。自販機で買ったパック牛乳片手に、屋上から見渡せるであろう青空を思い浮かべて。
 屋上には卵が落ちていた。
 私がさっきまで想像していた通りの、わたあめのような雲が散らばった空の下、屋上に卵が落ちていた。
 落ちていたというよりかは、誰かがそこに置いていったかのように、ぽつんと、そこに。傷一つついていない、抜けるような青色の、鶏の卵ぐらいの大きさで、手で包むように持つと少し暖かい。
 学校の屋上というのはそれなりに高い位置にあって、周りに高い木があるわけでもないので、それ故にこんなところに鳥の卵が落ちているはずもないのだけど。
 そうして、突然、
 パキリ

「わわ、」

 パキ、パキ、パキ
 何の前触れも予兆もなしに、手の中の卵が割れていく。拾うときに力を込めすぎてしまったのだろうか。そんなつもりは、なかったのだけど。卵は私の動揺と混乱とはお構いなしに、次々とその美しい殻を割っていき、やがて。
 きゅう

「な、・・・」

 両手の平の中、ピチリピチリと体をよじり、産声を上げたのは、黒い黒い、生き物。よく見ると先っぽが開いたり閉じたりして、赤色が見え隠れしている。どうやらこちらが口らしい。五センチほどの長さのソレは、もう一度きゅう、と鳴いて、苦しそうに身をよじった。私は少しだけ目を閉じてまた開けた。いる。夢じゃない。それじゃあ次。もっとよく見る。真ん中のところに、ヒレのような物がパタパタと動いていた。きゅう。また鳴く。さっきよりその声がか細い気がする。ヒレ、ひれ、鰭・・・

「魚?」

 色々と考える前に体が動いていた。ダッシュで屋上最寄のトイレに入る。飲みかけだった牛乳を洗面所に流し、中をざっと洗って半分くらいに水を注ぎ、その中に黒い生き物をそっと入れてやった。飲み口を大きく開いて中を覗く。少しの間、ソレはじっとしていた。死んでしまったかなと思った。そうしてやがて、牛乳パックの底をくるくると元気よく泳ぎ始めた。きゅう。鳴き声とともに、小さな泡がぷくりと浮いた。はぁ、と、心から吐き出した安心印の溜息。
 なんだろう、これ。
 私の疑問に応えるように、ちゃぽん、と、小さな水面に波が立った。


「黒くてちょっと長めできゅうって鳴く生き物?」
「うん。」
「なあに、それ。」
「私にもよく分からないんだよね。」
「ちょっと長めってどれくらいなの?」
「五センチくらい。」
「ふうん。」
「うん。」
「そんなことより、あんた、その紙パック捨てないの?」
「あ、あー、うん、これはいいの。」
「そ。」
「うん。」
 
 そんな事から始まった今年の夏休みは、特に何ごともなく、順調に一週間が過ぎた。
 学生らしく勉学は嫌いでも、学校という場所や制服、雰囲気などは嫌いではない私は、毎年、夏休みのほとんどを開放された学校のどこかで過ごしている。屋上、図書館、理科室、音楽室、普通教室、特別教室。特に何もしないで、一日中過ごしている。千佳子をはじめとした友人たちからは、信じられないと言われ続けているけれど。
 去年と違うのは、青い卵から生まれた、例の黒い生き物をペットボトルに入れて連れ歩いているという点だろうと思う。
 夏の日差しが入り込む、誰もいない廊下を一人で歩く。遠くでは、合唱部の歌声と、吹奏楽部の合奏の音が緩やかに流れていた。音楽室が近い。
 きゅう

「またお腹減ったの?」

 餌は、金平糖。何も考えずに、家にあった手短なものを選んでみただけだった。我ながら変なものあげたなあと思う。なんだか美味しそうに食べてくれたので、結果オーライというところだけど。
 黄色い金平糖を、ポチャリと、上の部分を切り落とした二リットルのペットボトルの中に入れると、生まれたときと変わらない真っ赤な口でくわえる。
 魚じゃあないな、とは、うすうす気付いていた。誰かに言うつもりはなかった。映画とかでよく見る、人を襲ってしまうようなモノではないようだし。水の中で時々きゅうと鳴いてすいすい泳ぎ回っている、ただそれだけで。
 ただ、一つ困ってしまったのは、大きくなっていく、ということ。尋常じゃないスピードで、この不思議生物はすくすくと成長していった。紙パック、五百ミリペットボトル、二リットルペットボトル。それでもまだ窮屈そう。ちょっとだけ、斜めっている。
 それと、困ってしまった事ではなくて、不思議に思ったことは。
 この生き物は、他の人には見えないらしい、ということ。

「みつき!」
「あ、千佳子。おはよう。」
「おはよ。またペットボトル抱えて・・・昨日より大きくない? 二リットル?」
「ふふん、まあね。」
「自慢げにしない。何やってんのか分かんないけど、水、零さないようにね。」
「はいはーい。」

 きゅう
 千佳子の後ろ姿を眺めながら、不思議生物が声を上げた。多分それも、千佳子には聞こえていないのだろうなと、私は感じた。
 とにかく、家にはもうこれ以上の容器はない。けれど、とりあえず孵化させた身としては、たとえ不思議生物でもちゃんと育てなくちゃ、という責任感が私にはあった。金平糖も気に入ってしまったようだし。川や海のに放つわけにもいかないし。
 思い浮かんだところは、案外とても近いところ。

「はー・・・ ほんと使ってないんだなぁ・・・。」

 水泳の授業も水泳部もないうちの学校に、なぜか設置してある屋外プール。プールサイドには好き勝手に育っている雑草、柵には蔦が絡まって緑一色、そして肝心のプールの中は、落ち葉やアメンボなんかが悠々と泳いでいるものの、水自体の色はあまり汚くないように見えた。太陽の光が、水の中にまで広がっていて眩しい。蛙か何かがいるのか、時折、ざぶん、という波音が聞こえる。
 きゅう
 不思議生物は、楽しみなのか、ペットボトルの中でちゃぷりちゃぷりとはしゃいでいる。
 私はその様子に満足しながら、プールの端っこにしゃがんで、そっと、ペットボトルごとその中に入れる。その途端、ペットボトルの中から出た不思議生物はまるで故郷に帰ってきたみたいに、気持ちよさそうにプールの中を泳ぎ始めた。
 よしよし。調子は良さそうだ。ちゃぽん、ちゃぽんと、不思議生物がはねる音がする。
 ちゃぽん、ちゃぽん、ちゃぽん、
 ざぶん
 あ、またカエル。
 そう思って、顔を上げた。
 波音の先で、あの男の子が、空を見上げていた。

「あれ、君、」
「うわぁ!」
「あ!」

 ざぶん
 彼は、どうしてここにいるんだろう。
 女の子みたいに細い体と、少し長い前髪が印象的だった男の子は、近くで見ると、意外にも長身で、やっぱり男の子なんだなと実感した。

「大丈夫?」
「うん、引き上げてくれてありがとう」

 プールに頭からつっこんだ私は、真夏の太陽で温められたプールサイドで体操座り。びしょびしょになったセーラー服はずいぶん重い。服で水の中にいるのは初めてのことで、もともと泳ぎは得意ではない私は、だいぶ溺れかけたのだけど。水の中でつかんだ彼の手は、骨ばっていて、指が細くて、水から顔を上げたとき、慌てたような彼の顔が、ちょっと意外に感じてしまった。

「さ、坂名要。」
「あれ、僕自己紹介したっけ。しかもフルネームなの?」

 私を引き上げたあと、坂名要はまた水の中に戻っていた。まるで魚のようだ。ざぶん、と顔だけ出して、不思議そうな顔をする。あと、面白そうな顔も合わさっている。

「入学式にいたよね? 一番後ろ。」 
「あぁ、そっか。あの時の。」  

 ざぶん
 太陽の光が水面に反射して、坂名要の目の中はキラキラしていた。
 水面を見つめていたその目が、ふと、こちらに向く。

「ところでさ。」
「ん?」
「この大きなのは、君の?」
「え、」

 きゅう
 ざぶん

「えええ!」
 
 でかっ!
 きゅうきゅう、と、坂名要の周りを泳いでいる不思議生物は、さっきとは比べものにならないくらいの大きさに成長していた。いるか?と呟けば、鯨だと思うよ、という坂名要の言葉。確かのその言葉通り、不思議生物の形状は鯨のようで、大きさは私の言うとおりのイルカのようだった。
 きゅう

「え、えと、私のじゃあ、ないんだけど、うん。」
「アハハ、はっきりしないなー。」

 楽しそうに笑って、もう一度潜水。楽しそうに、大きくなった鯨と泳ぎ始める。
 私より仲良くないか。ちょっとだけ、羨ましいような。

「見えるんだね、これ。」
「あれ、これって、見えないもん、なの?」
「そんな感じだったみたいだけど。」
「やっぱりはっきりしないなぁ。」

 あはは。夏に似合う、明るい笑いが、プールサイドに響いた。案外、感情が表に出る男の子なんだなぁ、と、私は釣られて笑いながら、思っていた。
 私の制服と同じように、水を含んで重くなっているであろう坂名要の制服。それをものともせずに、彼は鯨と一緒に、浮かんだり沈んだり、泳いだりを繰り返していた。
 ざぶん、ざぶん
 きゅう

「夏はね、」

 何も聞いてはいないのに、坂名要はそうやって切り出した。

「なんだか、体が乾いてしまって、無性に、水の中に、入りたくなってしまうんだ。」
「それって、病気?」

 病弱だと、聞いている。そんな病気、聞いたことないけれど。

「ううん、別に、そういうのじゃない。」
「ふうん。」
「ここは、使われてないし、水も汚いって程じゃないし、だからよく泳ぎに来るんだ。」
「そうなんだ。」
「そうなんだよ。」

 中途半端な長さの、分かるような分からないような会話。どうして制服のままなのか、どうして授業に出ないのか。くだらない事からちょっと重要なことまで、色々と疑問が湧いて出たけど、口には出さなかった。そういうのは、なんだか、今言うことじゃないかなと、思った。本当にただの勘だけど、勘は、あまり外れない。

「ここ、居心地良いだろ?」

 別に彼がそうしたことではないのに、自慢げにそう言ってくる坂名要は、まるで強がってる子供みたいな顔をしていて、やっぱり意外で、面白くて、少し笑えた。笑ったら、少し怒ったような顔をして、なに笑ってるの、って、言われてしまった。まるで百面相だ。
 ずっと静かだった蝉が、急に、その独特な鳴き声で自己主張を始める。太陽が、それに負けじと光を強める。ああ、暑いなあ。

「そうだね。」

 私の返した返事が聞こえているのかいないのか、気持ちよさそうに泳ぐ一人と一匹は、ざぶんざぶん、同じ効果音を携えて、兄弟のよう。
 ゆらゆらと、彼らの影が水の中で揺れる。
 気持ち良さそうだなあ。
 きゅう
 いつのまにか、私の足元の水面から顔を出した鯨は、なにかをねだるような仕草で、一声上げた。人間らしい鯨だなぁ、と茹だるような暑さの中、思う。

「あ、金平糖。」

 制服のポケットの中で水に浸ってしまったにもかかわらず、そんなに被害のなかった金平糖。待ち構えていた大きく開く鯨の口に、無造作に投げ入れてやると、嬉しそうに口を閉じた。コリコリ。噛み砕く音がする。

「金平糖なんだ、エサ。」
「なんか、好きみたい。」
「変な鯨。」
「え、いまさら?」

 残った金平糖をまたポケットの中に突っ込んで、立ち上がる。ちょっとだけ太陽に近づいて、体が暑くなった。その分後悔した。

「さかなかなめー!」

 反対側に泳いでいってしまった、彼らに叫ぶ。

「なーにー?」
「私も泳ぐぞー!」
「いいんじゃないー? 溺れたらまた引き上げてあげるよー。」
「さっきのは溺れたわけじゃないよ!」

 ざぶん!

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