text | ナノ


人間、甘いものがないとやってけないのだ。というのは、小学生の頃からの僕の持論だった。勉強も運動も、まずは糖分がなければ始まらない。甘いもの、甘いとき。途中で随時補給するのも忘れない。忘れてはならない。恐らく区分的には甘党という人種に分類されるであろう僕であったので、父の転勤で新しく住まうことになった街の甘味処を越してきた次の日には地図上で把握したことも、春が終わる頃にはとりあえず全ての店に顔を出したことも、そして、夏が始まる頃には転校先の学校で女の子たちのお菓子作りの実験台としてのポジションを確保していたことにも、長年の僕の友人は何一つとして驚かなかった。何一つとして。

「そんな報告してくれなくても完全に予想通りだ」
「あれっ」
「あれ、じゃねえよ。それとも、自慢か。自慢だろそれ」
「いや、自慢じゃな、痛い痛い」

耳を引っ張られてしまい抵抗する術もない。本気で痛い。ひとしきり僕の耳をひっぱったあとにそれを攻撃対象から外すと、友人の石動誠は溜め息をつきながら部屋の天井を見上げたのだ。妙に溜め息が似合う男だった。

「つーかさ、実験台って何だよ。それって男子高校生としてはすげー美味しいポジションじゃねえの?」
「いや、やっぱりほら失敗作とかもあるから全部が全部美味しいというわけではいたたたたたた」
「そういう意味じゃねぇよ」

痛い。だから耳は痛い。くそ。左側だけ大きくなったらどうするつもりだ。審司さんが素でできるぞ。あれは右か。せっかく人が近況報告をしていたのに耳を引っ張られることになるなんて思いもしなかった。
・・・しかし、こいつのこの反応はあれか。こいつ実は女子の手作りお菓子が食べたいとかそういう願望があるんじゃ。そう言うと、

「はあ?」

心底馬鹿にしたように聞き返された。

「他人の失敗作食うくらいなら、自分で作った方がマシ」
「ああ・・・ですよね」

ケーキ屋を営む父を持つ石動は、多少なり料理の心得があった。料理、特に、お菓子の類のレシピ。大半の菓子は買うよりも家で作ったほうが早いし安いという僕としてはなんとも羨ましい家族をもつ友人の得意菓子は、ロールケーキ。

「じゃあその料理の腕を僕にくれよ」
「じゃあってなんだ、じゃあって。くれてやってもいいけど、どうせお前作んねぇだろうが」

そうなんだよな、と頷いてみせる。自分で作ったものより、他人が作ったものを食べたい。人は誰しもそういうものじゃなかろうかと思うのだけれど。そういう僕に、調理実習以外の料理の経験はない。卵焼きをスクランブルエッグにするくらいの技術は持っている。小、中と班の子に可哀想な目で見られたというのは秘密の話だ。

「僕には作ってくれないよな」
「自分で作ったもんが他人に食われるとか」

無理。吐き捨てるようにそう言った。そういうものなんだろうか。一度だけ彼が作ったシンプルなロールケーキを見たことがあるけれど、それはもう素晴らしい出来だった。見た目からして既にふわふわしていた。生地に挟まれたフルーツも生クリームもきらきらしていた。噂によるとジャムも入っているとか。イチゴジャム。生クリームにジャムだなんて。もはや吐血しか出てこない。食べたいな、と、強く思ったものだ。当然の如く要求した。結果、一口も食べさせてくれなかった。ケチだね。目の前で石動の口の中に納められていく一本のロールケーキは、僕に精神的なダメージを与えたのだった。

「で」
「うん?」
「さっきからお前が喋りながらも常に手を動かして食い続けているそれの感想を聞かせてくれ」
「美味しい以外の何物でもない」
「・・・要するに、美味いんだな」
「うん」

こんなにたくさんどうしたんだよ。と、ホールケーキ用の箱に入った、たくさんのプリンタルトを眺めつつ僕が聞くと、石動はその一切れを手にとって怠惰に答えた。

「・・・親父の、新作の試作」
「へえ」

僕が引っ越してしまって、石動とは全く会わなくなってしまったので、必然、彼の父親が作るケーキも、引っ越して以来食べていない。そんなところにこのタルトの山は嬉しい限りだった。今日、突然訪問してきたのは、まさかまさか、タルト処理係として僕を採用したということか。そしてわざわざ一人息子をぱしらせた、と。石動父は神なんだろうか。
僕がタルトの喜びに浸る隣で、石動は残念なものを見る目でため息をついたのだった。おいやめろその目。その目はやめろ。

「でも駄目だなお前は。甘いもんならなんでも美味いって言うし」
「そ、そんな。僕が甘いお菓子ならなんでもオッケーな軽い人間だとでも?」
「・・・・・・」
「軽い人間でごめんなさい」

基本的にはなんでも美味しいのだからしょうがない。今日のは特に、石動父のケーキでもあることだし。そう返すと、そーですか、と、おざなりに相槌を打たれた。こいつ、会話する気あるのか。

「あ、でもさっき出てきた失敗作とかは美味しくないのもあるけど」
「あ、そ」
「女子って凄くてさ。お菓子作りに関してはすごい上達早いんだよね」
「そりゃお前、渡してえやつがいるからだろ」
「ああ、なるほど・・・え?」
「あ、」

次のタルトをロックオンしていた僕が勢いよく顔を上げると、そこには明らかにしまったという顔した石動がいた。僅かながら表に出た焦燥感。やってしまったという風に、口元を隠して肘をついた友人に対し、にやりと頬が上がるのを感じた。にやり。まさにまさに。タルトはひとまず机の隅に置いて、次々と沸いて出た質問を、何の遠慮もなく投げつける。

「ええ、なになに、渡したいやつ、いんの?」
「おいその女子のノリ止めろ」
「いいじゃん別に、減るもんじゃないんだし」
「俺の中の何かが確実に奪われる気がする」
「じゃあいるにはいるんだ」

身を乗り出してそう聞くと、なんとなく罰が悪そうに、まぁな、と返された。顔は横を向いたままだ。わあ、照れてる。なんだこれ。益々興味をそそられた。
石動と僕の間では、あまり恋愛話は持ち出されない。彼には今まで何人かの彼女がいたわけだけれど、若い恋愛っていうのは往々にしてそうだけれど、あんまり長続きはしない方だった。相手っていうのは、時に同級生だったり、後輩だったり、どこから聞きつけてきたのか、他校の女の子だったりして、長くて一年くらいだったか。僕は彼の口から直接そういう話を聞いたことはない。男同士でそんな話をするなんていうのもあまりないことだろう。僕が知っているのはあくまで噂。学生生活の中で自然と耳に入ってくる、尾ひれの付いた噂話ばかりだった。
驚いてるのは、いつも告白される側だったこの友人が、今回は自分から好意を抱いているということであって。

「クラスの子? 他の学校?」
「他校」

観念したのか、それともいちいち隠すのが面倒になったのか、意外にすんなりと教えてくれた。

「可愛い?」
「ちょー可愛い」
「おお・・・ベタ惚れじゃないですか」
「なぜ敬語」
「甘いもの好きなんだ?」
「うちの常連だよ」

それはそれは。なかなか気が合いそうだな。僕と。紹介してよ、と言ったら、文句でも言おうとしたのか口を開いた石動は、何も言わずにそのままため息をついた。いや、もちろん僕は冗談のつもりでだな。
石動とは中学からの付き合いだけれど、万年帰宅部で、放課後はよく店の手伝いをしていた。小さい頃からの習慣だったと、以前に聞いたことがある。高校に上がってから時々は厨房にも立ち始めたという。僕も何度かその場面には遭遇したことがあった。他校で常連ということは、多分そうやって店に立っている時に見かけたんだろう。それくらいの推測は出来た。
質問は続く。

「なあ、名前は? 名前。あ、写真とかないの?」
「そこまで教える義理はねぇ」
「ええー」
「言っても分かんねぇよ、お前。いいからさっさとそれ食え。手ェ止まってんぞ」
「ええー、うぐ」
「しつこい」

近づけた顔を押しのけられて、開けた口にタルトを突っ込まれた。い、いくらなんでもそれはやり過ぎじゃないかな! ちょっと詰まった。僕が四苦八苦しながら喉につっかえたタルトの塊を飲み込んでいると、石動は小さく苦笑しつつ牛乳を渡してくれた。ごくん。大きな嚥下音を立てて、タルトと牛乳は井の中に落ちていく。
一息ついて、再び、にやり。

「・・・いやー、今日は面白いこと聞けたなぁ」
「そりゃ良かったな」

同じようにタルトを口に運びながら、石動は呆れていた。さっきの焦燥感に駆られた表情は何処へやら。その姿は僕よりもずっと大人びて見えたことは同い年としてあまりにも悔しいので認めたくはない。
なんというか。これが成長というやつなのだろうか。人間一年近く会ってないと変わってるものなんだな、と僕は思ったのだけれど。
一年。
もう、三年生も終わりに差し掛かっていた。

「・・・桜庭」
「ん?」
「お前、進路どうすんの」

なんとなくそんな話題に入るかなと思っていたら、石動が切り出してきたのは本当にそんな話題だった。勘が冴えてる。僕はタルトを咀嚼しつつ、それに答えた。

「特に考えてないけど、行ける大学に行って、入れるところに就職するかな」
「変わってねぇなあ」
「まあね」

浪人も留年もしたくはない。一応それは、将来の夢もやりたい事もない、僕なりの目標だ。

「そっちは? やっぱ調理師免許取んの?」
「あー・・・そうな」

ああ、やっぱりなあ。なんて、そんな風に感慨に耽った。やっぱり、パティシエの道に進むのだ。

「自分の料理、人に食べられるの、無理なんじゃなかったっけ?」

からかい半分に、僕がそう言えば、石動は、ああ、と、まるで意に介さずに頷いた。

「人に出せるようなもん、作れねえからな。今は、まだ」

今は。ということは、いつかは、それを作れるようになる。と、そういう意味を言外に含んでいるのだ。
最初は、ただ単に、その家の子供らしく家業を手伝っていだだけだったのかもしれない。彼自身、日常的にお菓子を口にするわけでもなく、そして自分が菓子類を作れるということを、吹聴するわけでもなかったので。けれど、そんな彼が一番、彼の父親の仕事に憧憬と尊敬の想いを抱いていることは、目に見えて明らかだった。それは僕でなくても、言える事実ではあるのだろうけれど。
勝手にそんな風に考えに耽っていると、いつのまにか時計の秒針の音が響くだけの、短い沈黙が降りてしまっていた。居心地が悪いかったわけじゃない。それなのに、咄嗟に話題を探してしまったのは、どうしてだろう。
沈黙を破ったのは、僕のものではない、小さなため息。
僕が顔を上げると、石動は何故か罰が悪そうに何度か頭をかいて、そうして僕に言うことには。

「フランス行くんだよ」
「・・・え?」

その、友人の言葉に、思考が、止まった。

「フランス?」
「フランス」

フランス。って、あれ、なんだっけ。あ、そう、外国の名前。確か、西の・・・ヨーロッパの、国の名前で。ワインで、チーズで。
スイーツの、国で。

「へ、え・・・それはまた、」

遠い所だね。
あまりにも回転の遅い頭の中を叱咤しながら、辛うじてそんな言葉を返した。石動は、そうだな、なんて、短く相槌を打ってきて。何でも無いような、まるで世間話をしているかのようなその様子に、ほんの少しだけ、苛立ちを感じた。

「あのさ、結構驚いてるんだけど、僕」
「そりゃそのために来たからな。驚いて貰わねえと困る。つーか、俺も驚いてる」

勘違いしそうなほどに落ち着いた声でそんなことを言う。しかもタルトの続きを食べ始めた。人を驚かせるだけ驚かせて、なんてやつだ。そのお陰なのかなんなのか、僕の頭も漸く通常の回転を取り戻してきていた。

「え、っていうか何、いわゆる修業ってやつ?」
「ご明答。あー・・・親父の兄弟子ってのが・・・あ、日本人なんだけど、その人がパリで店やってんだとさ」
「パリ」
「そこで五年間くらい、住み込みで働きながら勉強して」

五年。その世界で、その時間は、長いのか短いのか、分からないけれど。
僕は、長いんだな、と思った。

「いつから?」
「来年の春。けど卒業したらすぐ来ないかって言ってくれてて、そうしようと思ってる」
「じゃあ、三月中か。結構切羽詰まってるな・・・じゃあ、準備とかは? もう終わってんの?」
「いや、急な話だったからまだちょっとばたばたしてて・・・あ、」

その時、まるで見計らったかのように石動の携帯が鳴って、彼は一言断って通話ボタンを押した。どうやら、家族からのようだった。
僕はとりあえずは先ほどと同じようにタルトを食べていた。そろそろ止めないと夕飯が食べられないなと感じた。まだまだある。明日に持ち越すのは確実だろうなと思う。どうせなら、固くならないうちに食べておきたかったけれど。
そうして、唐突に、フランスかあ、なんて、一人ごちた。何度かテレビで見たことしかない、赤と青と白の国旗で、トリコロール?とかなんとか。石畳で、パン屋な感じ。フランス料理を食べられるような生活はしてないし、ワインを飲んでいい歳でもなかった。名前は良く耳にするけれど、実際にはあまり馴染みのない国。そんなイメージ。
遠いんだろうな、と思う。時差は、8時間くらいだったっけ? 昔、授業でやったような、やってないような。
そんなことを考えている内に、石動はいくつかの会話を終えて電話を切っていた。携帯を鞄に入れながら、こちらを見もせずに言う。

「悪ィ、もう行くわ。今日中には帰んねえと」
「新幹線、何時?」
「4時32分発」
「そっか」

ならもう行かないと。バスの時間も考えると良い頃合いだ。

「悪かったな、突然」
「別に。いつも暇だし。っていうか、あんまり謝んな」
「なんで」
「なんか調子狂う感じ」
「なんだそれ」

石動が上着を羽織って部屋を出ると、僕もダウンを引っ掴んで後に続いた。前を行くその背中を見下ろして、階段を下りながら、僕は異国に行くという友人になんて声をかけるべきか悩んでいた。頑張って? 行ってらっしゃい? なんだかどちらも違うような。変な感覚だ。現実味がなかった。ふわふわと、まだ、どこか空を浮いているような。
石動はリビングにいた両親にお邪魔しましたと声をかけていた。ちなみに二人にもタルトは渡してある。もともと石動家の店を見つけたのは母さんだったので、その感激具合は言葉に表すまでもない。
バス停まで送ってくるからと言い置いて、それを聞いて柄にもなく遠慮してくる石動を、押し出すようにして玄関を出た。
見上げると、冬の空はどんよりと重く沈んでいて、今にも雪が降ってきそうだった。そういえば、天気予報じゃ今週一番の冷え込みだとか言っていた、ような。

「お前、寒いだろ、その格好」
「寒くないよ」

部屋着にダウンというだけでも、結構暖かいものだ。ユニクロの実力を嘗めてはいけない。とか言って強がってみたものの、実は結構寒かった。我慢出来ないほどでもないというだけだ。そう、我慢できないほどでもない。

「・・・おい」
「ん? わぶっ」
「バス停までだからな」

突如として顔面に激突してきたのはマフラーだった。うわなにこれなにこのふわふわ。めっちゃふわふわ。柔軟剤効き過ぎだろこれ。

「べべべ別に寒くないし」
「いいから巻いとけ。寒がり」
「敵に情けをかけられるとは不甲斐ない」
「いつから戦国武将になったんだお前は」

バレていた。むしろバレバレだった。不甲斐ない。しかしそういう僕に遠慮はない。与えられたものは親でも使えと。どっか違う気もするけれど、そんなことはともかくとして、投げつけられたマフラーで口元まで覆うと、随分暖かい。
バス停までの道すがら、会話は少なかった。話題がなかったというのが正しい。けれど、先ほどのように、話題を見つけようという気は起きなかった。
田舎のわりに立派な屋根のついたベンチのあるバス停で、石動が腕時計と時刻表を見比べた。

「あと十五分くらいだ」
「んー」

冷気でひんやり冷えたベンチに座って、バスを待つ。静寂。
僕の隣に人ひとり分の間を空けて腰を降ろした石動が、うっすらと白い息を吐きながら呟いた。

「もう少しお前んち居ても良かったな。寒ィし」
「そうだね」
「・・・なんか怒ってんの?」

は?
突然なその言葉に、思わず聞き返してしまった。

「え、なんでそうなる」
「・・・や、別に。なんとなく」
「怒ってないよ」
「なら、いいけど」

どこに怒っているように感じる要素があったんだろう。返事が素っ気なかったとか? 何を気にしてるのやら。石動はわざと白く染めた息を眺めながら、寒いなあと小さく呟いた。

「先生、質問です」
「なんだね、お馬鹿さん」
「馬鹿は余計です先生」
「スルーしろよ。なんだよ、質問って」
「なんでわざわざ新幹線使ってまでうちに来たわけ?」
「・・・・・・あー」

フランス行きの話をしていた時、そのために来た、とかなんとか言っていた。要するに、彼は僕にフランス行きのことを言いに来たというわけで。僕はてっきりタルト処理係としての仕事を依頼されたのかと云々。
石動はしばらく考え込んで、ぽつりと。

「俺、メールとか嫌いだしな」
「そう、だったっけ」

そういえば、長い付き合いだけど、こいつのメルアド知らないな。

「手紙って柄でもねぇし。タルトも余ってたし。まあ、じゃあ、直接言いに行くか、と」
「思い至ったわけだ」
「そういうことになるな」
「なるほど合点」
「なんだその相槌」

ひゅるりと冷たい風が頬を撫ぜた。道の上は猫の子一匹通りはしなくて、静かな静かな空間が続いている。知らない街に来てしまった。そんな錯覚が生まれつつあった。
そうして唐突に、考えは巡る。

「・・・あっ」
「どした」
「お前、どうすんの?」
「主語と述語を拾ってこい」
「お菓子渡したいやつだよ! フランス行く前に、伝えんの?」
「はあ?」

何言ってんだこいつ。こちらに振り向いた友人の顔にはまざまざとそんなことが書かれていた。本気で僕の発言の意味が分からなかったようだ。こ、こいつ、彼女いない歴と満年齢が完全一致している僕に全部言わせる気か。畜生。鬼だ。鬼畜の所業だ。

「フランス行ったら暫く会えないんだろ?」
「まあ、そりゃあな」
「だったら行く前に気持ち伝えなくていいのかよ」

それは僕の素直な気持ちだった。今までの人生、愛だの恋だの、惚れた腫れたの話題にはめっきり縁がなかった僕ではあるけれど、もちろん初恋だって、片思いだって経験済みだ。残念ながら悲しいことに、想いを伝える前にそれらは壊れてしまってはきたけれど。
想いがあればそれを伝えたいものなのではないのかと、思う。
すると石動は片手で両目を覆うようにして溜め息をつき(今日で何度目だろう)、あのなぁ、と僕に言い聞かせるようにして続けた。

「日本からフランスまでの距離って、どれくらいだと思う?」
「え・・・えっと、分かんな、」
「9608km」
「9、」
「そんなとこに行く奴に、いきなりンなこと言われたって、あっちが困んだろ」
「・・・・・・」
「そのせいで困らせたくねぇしさ、それまでの関係が壊れんのも、嫌だ」
「で、でもさ、」

遠距離だって、ちゃんと恋愛、してる人達はいるんだし。僕がそう言えば、友人は、手紙やメールでお互いの気持ちを伝えきれる気はないと言った。性に合わないとも。大切に想う人には隣に居て欲しいし、離れていたくはない。そんな風に、彼は言葉を終えた。

「・・・石動、」
「あ、もう無理。この話題、気まず過ぎるだろ。無理」

石動は落ち着かない様子でベンチから立ち上がると、そのままバス停の標識の場所まで進んでいった。時計を見て、少しだけ首を伸ばして道の向こうを伺っている。
一方で、僕の頭の中では、ぐるぐると色々な考えや思案が凝り固まるようにして渦巻いていた。考えて考えて、ついに何を考えているのかよく分からなくなってきたところで。

「桜庭」

不意に、名前を呼ばれた気がした。

「?  呼んだ?」
「おー、呼んだ呼んだ」
「あ、バス来た?」
「一つ聞きたいんだけど」
「何さ」

僕が立ち上がって、その隣まで行くと、別に座ってても良かったんだけどと言われた。なんだか、立って聞きたい気分だった。尤も、僕と石動との身長差は五センチ以上が確立されてしまっているので、うっかり並んで立ったりなんかすると、僕自身の男の矜持に関わってくるのだけれど。身長差さえなければこの世の中はきっともっと平和でハッピーな雰囲気に包まれるはずだというのは僕の勝手な推論。
また伸びたか?こいつ、と、僕が器の小さい観察をしていると、石動は、静かに道路の方を向いたまましゃがみ込んで、

「お前ならどうすんの?」

と、訊いてきた。

「は?」
「遠くに行く奴にいきなり告白されたら、どうする?」

困るだろ?と、僕を見上げて、細めた目の奥に、縋るような光があったのは、気のせいだろうか。
さっき自分で打ち切った癖に、また同じ話題を振ってきた。この友人が考えていることが、よく、分からなかった。

「別に。僕は、困んないよ」
「へえ?」
「多分、それを伝えてくれたことに感謝するだろうし、その上で、その時の自分の気持ちを言うんじゃ、ないかな」
「自分の気持ち、ねぇ・・・」
「少なくとも、嫌な気持ちになったり、伝えてくれた人のことを嫌いになったりはしない。と、思う。・・・まあ、推測なんだ、けどさ」

あくまでも、僕個人の意見だよ、と付け加えると、石動は、それを聞いてんだからいいんだよと言った。口元を寒そうに両手で覆って、道路を見つめる表情は僕からは見えなかったけれど、不思議と、彼が泣いているのではないかと思った。きっと、気のせいだろう。
再び静寂が覆った二人の間に、ぽつりと置かれたのは、彼の呟きだった。下から届いたそれに、僕は耳を澄ます。

「俺は臆病だから、お前みたいには出来ねぇなあ」
「臆病?」
「そ。良い返事でも悪い返事でも、聞くこと自体が怖ェんだよ」
「・・・別に、正解はないんだしさ。好きにしたら、いいんじゃない?」

さっきは少しむきになって言い返してしまったけれど、結局はそれが及第点の答えになるんだろう。所詮は、石動自身の問題であり、石動の気持ちであるのだから。彼の友人として、アドバイスできるのはここまでだった。ここが、限界だ。もともと、恋愛経験のない僕に意見を求める方が間違いなのだと、思わないでもないけれど。
友人はしばらくしゃがんだまま、両腕を前に投げ出すようにして、顔を埋めていた。そうして、あーあ、という、無理矢理に踏ん切りをつけるようなわざとらしい溜め息が聞こえてきて、それで僕は、彼は諦めてしまったのだろうと思ったのだ。

「決めた」

そう言って石動が立ち上がると、少しすっきりしたような表情をしていて、それだけで僕は酷く安心してしまった。

「言うの?」

敢えて、予想とは反対に訊いてみたことに、特に意味はなかったけれど。

「あー・・・あれだ。臆病者は臆病者らしく、逃げることにするわ。まあ、まだ立ち向かってもいねぇんだけど」
「そんな風に言わなくても」
「自虐とか、そんなんじゃねぇよ。逃げるが勝ちって言うだろ?」
「・・・そうだな」

何に勝ってんのか分かんねぇけどな、と言う石動に、それは強がりと言うのだと、伝えることは、しなかった。それも答えなんだ、と、少しだけ感心した。ただ、こいつらしいなと思ったのだ。他人事のように。

「あ、バス来た」

遠く遠くからエンジン音が聞こえてきて、僕が友人の向こうを覗き込むように体の向きを変えたとき。

「・・・桜庭」

また、名前を呼ばれたような気が、して。

「? 呼んだ?」
「呼んだ」
「なん、」

なんだよ、と。そう訊こうとした。
曇り空なのに、空が陰ったような感覚に陥った。すぐに気が付いた。その感覚はつまり、僕の上に影が重なったからで。

「―――・・・」

それは言うなれば、プリンとか、シュークリームとか、柔らかくって、甘過ぎないお菓子の、一口目を食べる時と同じ感触だった。冷たくって、柔らかくって、仄かに甘い。
僕の頭の中は、生クリームのように真っ白だった。マフラーで暖められた頬に添えられた冷たいものが、彼の指先だということを認識したのは、その、ずっとあと。
石動の長い睫毛に、同じように白い雪がかかったのが見えた。すぐに溶けてしまって、綺麗だな、と、やけに鮮明に感じていた。
それは、一瞬だった、はずだ。
唇にのせられた、柔らかな、その感触が。
僕の思考回路を、焼き切った。

「悪ィ、な」

そんな風に、謝られても。
気づけば、白い、小さな雪が、降り始めていた。
友人は今までないないほど真剣な表情をしていて、何故か、泣きそうだ、と思った。酷い悲しみか、それとも、痛みを、耐えるような。
僕は、それを見上げていることしかできずに。

「俺が、あっちに行ってる間に」

友人の言葉が、雪のように、僕の中に降り積もっていく。冷たいな、と思う。暖かいな、とも感じた。

「もし・・・お前の隣に、大切な人がいなかったら、そん時は、会いに行く」
「・・・あ、」

ぷしゅう、と、空気の抜ける、音がして。
気づけば隣に、こじんまりとした小さなバスが乗車口を開けて律儀に停車していた。石動はそのステップに片足を架けると、少しだけ身を捻って振り向いた。
縋るような、愛おしむような、細めた目は、きっと、気のせいでは、ないのだ。

「有り得ねぇくらい美味いロールケーキと、親父のより美味いタルト作って、会いに行くから」

返事は、そん時返せよ、と。
それだけを言って、バスの中に吸い込まれてしまった友人に、最後に、声をかけることは、できなかった。
僕自身、彼について、どんな想いを持っていたのか、自分でも定かではない。曖昧で、まどろっこしくて、けれどどこか、甘いような。どろりと、掻き混ぜられた、ような。
・・・首元に置いていったマフラーに顔を埋めて、ただ、一つだけ言えることは。

「ひ、」

あいつが作ったお菓子に、僕が釣られないはずはなくて。

「卑怯者・・・!」

冬の空に、僕の声が響いたかどうかは、分からなかった。

20130311

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