text | ナノ
仲直りしないの?と僕が聞くと、誰と?と返ってきた。ちらりとこちらを返り見た、くりくりした青い目は、いつもと変わらずに輝いていて僕は酷くほっとしている。厚過ぎない綺麗な唇に塗られたルージュは、春を連れてきたようなチェリーピンク。爪先には控えめに小さな花が咲いてますます春のようだと思った。30分ほど前から僕はベッドに腰掛けて彼女は三面鏡の前で自分の顔と睨めっこだ。彼女が流れるような手つきで自分の顔を彩っていく様子を眺めるのは嫌いではなかったが、彼女は素顔のままであるほうが美しいということは既に僕の知るところであったので、以前その事を彼女に伝えると、あんたも分かんないのね、と彼女はわざとらしくため息をついていた。
「女の化粧はね、不細工を隠すためじゃないの。鎧なのよ、戦うための。」
「戦うって、誰と。」
「さあ、それが誰かは人によって変わってくるわ。」
彼女が紡ぐ言葉にはいちいち難しいものが多かった。僕には分からないような。とりあえずは心に留め置いたそれらはきっと僕が今よりも歳老いたときに役に立つのだと思うのだけれど。 彼女は漸く化粧道具をポーチの中に収めると、同時にその中から煙草を取り出しかけて思い止まった。再びポーチの中に戻されたマルボロのケースを目で追いかけて、僕は吸ってもいいのにと言った。吸わないわと彼女は言う。それは強い口調だった。理由は教えて貰えない。いつも通り。それで?と語尾を上げた問い掛けは、純然たる疑心からきたもののようだった。僕はその言葉が何を示していたのかすぐには分からなかった。
「何が?」
「厭ね、貴方が言ったんじゃないの。それで、私は誰と喧嘩をしているの?」
「喧嘩じゃないよ。仲直りしないのって聞いただけ。」
「同じことでしょ。」
にべもなくそんなことを言う彼女に、僕は気づかれないように小さくため息をついた。分かっていないはずがない。しらばっくれようたってそうはいかないのだ。彼女だって、嘘つきと言われたくは、ないだろうから。
「今日だって車の中で待ってるんだよ。」
「貴方をね。」
「僕だけじゃなくてさ。」
「いいえ、あいつが待ってるのはいつだって貴方だけなの。」
「そんなこと、ないと思うけど。」
そう。絶対にそんなはずはない。だって彼は、いつも車の中に、大きな季節の花のブーケを用意しているのだから。花と緑が好きな、彼女のために。
「私、今からデートなのよ?」
「ああ、あのアジア系の彼? 僕、アジア人ってあんまり区別つかないから」
「私だって。」
随分と冷たいことを言っていることに、多分彼女だって気づいているのだ。あの日から、彼女はこんなふうに短い恋ばかりを繰り返している。人が恋しい。けれど、長く一緒にはいられない。華やかな恋の空気に身を包む彼女は、一見とても気丈そうで、その実、ガラス細工のように危うい存在だ。傍で見ている僕は気が気じゃない。
「顔を見るだけでも?」
しつこい。そう言われても仕方ないほどに僕が食い下がると、彼女は実に憂いた顔を浮かべて、その悲しみを嘲笑うように僕に微笑んだ。
「あのね、貴方の父親を悪く言うのは、とっても気が引けるから、言わないでおくけれど。」
僕の母は、言う。
「どんなに愛しあってても、離れていた方が幸せっていうこともあるの。」
傷付け合うのは、嫌でしょう? そう言って、「ごめんね」と、小さな春を控えた美しく柔らかな両手で僕の頬を包み、額に優しいキスを降らせて。ふんわりと香る香水のせいで、視界が陰った。
「別に。」
そうして。 僕は精一杯の笑顔で、彼女を見上げながら言うのだ。
「ママがそれでいいなら、僕はいいんだ」
このあと父さんの花束を代わりに受け取って、それでも僕は笑うのだろう。母さんの想いを胸にしまい込んで。
やれやれ。
嘘つきなのは、どちらだろう。
20121012