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 水の中というのは、存外暖かい。柔らかな感触に包まれているこの感覚は、多分、子宮の中に似ている。暖かな羊水に満たされた子宮に。そういえば、胎児は生まれるまで肺呼吸ではないのだそうだ。臍帯を通じて、酸素を取り込んでいるんだとか。どちらかといえば、ヒトというよりサカナに近い。つまり人間っていうのは、生まれてくるまでに母体の中で進化論を実証してるというわけで。
 閑話休題。
 ゆらり、ゆらり。差し込んできた光が、波にゆられていた。透明な水はどこまでも透明で、けれど見上げる先には確かに外界との隔壁があった。それは光だった。壁、というより、まさしく天井だ。光の天井。水の天井。水の底では波間が作り出した光と影とが踊っていて、それなのに静寂を顕していた。静と動。身体を巡る、静音。水に、色はない。けれど、目の前に広がっているそこには、青に染まっていた。それは壁であり、底であり、また空でもあった。空の色が、水に映りこんで、水は青くなる。幼い頃は、そんな戯言を本気で信じていたのだ。この中にいると、今でもそれが本当なのではないかと、思ってしまう。ゆらり、ゆらり。青と、水と、光につられて、ゆれていた。口から少しずつ吐き出される酸素は、小さな泡となって天へと昇っていく。それがまるで銀の粒のようになめらかで、綺麗なものだから、指先で触れようと手を伸ばした。宝石は、音もなく霧散した。手のひらを通して、光が透けている。手のひらを、太陽に。真っ赤な血潮。血液も、やはり水だ。
 水の底で、大の字の如く手足を投げ出した体は重く、気持ちのいい怠惰が支配権を握っている。意識としては、軽い睡眠状態に近いのではないかと思う。これは全くの勘だけれど。生命活動の御蔭で、眠たくなることはない。矛盾、してはいない。当然、生まれてからある程度成長している自分は肺呼吸なので、どうしても息を止めることになるけれど、不思議と、閉塞感はない。やはり、水の中は子宮に近いのだ、と実感する。きっと、青くはないのだろう。光に目を細めると、視界がぼやけた。もともと、粘膜の塊のような眼球は、水中の中では殆ど使い物になってはいなかったのだけれど。
  そこは限りなくヒトのナカに近くて、世界からふわりと隔てられた、青色の場所だった。

(くるしい)

 なぜか、くるしかった。あとから思えばそれは呼吸を止めたことからきた苦しさで不思議も何もない。子宮の中にいるのになあ、と、ぼうっとする頭で考えていた。百億年ほど、沈んでいたような気もする。けれど確か記憶を辿れば一分ほどしか呼吸を止めることができなかったはずなので、それは嘘ということになる。肺の中に貯めていた酸素が全て銀の粒になってしまって、ようやく、水底を蹴った。
 ゆらり、ゆらり。光が揺られている。それはまだ行くな、と、云っているようで、水面が近づくほどに、それは強くなった。水の底ではまだ光と影が踊っていた。今の今まで、そこで四肢を投げ出していた存在に、あまり興味はないようだった。銀の泡のように、光の道を昇る。それはまるで産道を通っているかのようだった。サカナから、ヒトになる瞬間。
 水面はもう目の前なのに、肺が耐え切れなかった。
 酸素は、もうない。心臓が早鐘を打った。警告。警戒。水の中。
 ここに、ずっといたかったはずなのに。いつまでもここにいられたら穏やかなのに。そう思う。何もかも、全てが光と水の中ならば。ヒトはどうして、外に出ようと藻掻くのだろう。
 その理由を、既にヒトは知っているのだ。
 だからこそ、光と、波のあいだから差し込まれた腕を、無我夢中で掴んだのだ。

「・・・はあっ、はっ・・・は、っ」

 波が立つ音が聞こえた。肺が大きく大きく伸縮して、喉と口を開かせる。浮遊感に身を任せて、ひゅうひゅうと、深呼吸を繰り返した。その姿が、水のように透明な眸に、映りこんでいた。目が、合う。ゆらり、ゆらり。水面に反射して、水の中まで沈むことのできなかった光が、その眸を、表情を、照らしていた。
 唇が、薄い笑みを引く。

「おかえり。」
「・・・うん。ただいま。」
 
  待っている人が、いるから。愛する人がいるから。
 そんな理由で、ヒトは、サカナからヒトへと変わるのだろう。

20121007

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