text | ナノ


 「緑の屋敷」と呼ばれる場所があった。街の外れ、取り残されてしまったような竹林の中に、その屋敷はある。屋敷といっても、外観はどちらかと云えば洋館だった。竹林の入口にある門はいつでも開け放たれているので、子供たちの良い遊び場で、春になると筍目当ての老若男女が出入りするけれど、それでもその奥に構える大きな屋敷に近づくことはなかった。あまり陽の光が届かない竹林の中で、屋敷の周囲だけは明るかったけれど、しかしその明るさをものともしない不気味さを、「緑の屋敷」は持ち合わせているからだ。

「開かない・・・」

 妙にデザインの凝ったドアの取っ手を持って、僕は小さく溜め息をついた。駄目元で引いてはみたけれど、精々紙一枚分の隙間が開くくらいだ。原因は明白だった。鬱陶しいほどに絡みつく、蔦。ドアだけではなくて、もはや屋敷全体を覆い隠す程に、屋敷の壁には青々と蔓性の植物が這っている。街中でも暑熱対策なのか多少塀や壁に蔦を絡ませている家は見かけるけれど、それにしたって限度があるというものだ。外見的には廃墟以外の何物でもない。屋敷を覆う緑。なんて事はない。ただ外見的特徴を捉えただけのその通称を、街で知らない者はいなかった。僕だって用がなければこんな所あまり来たくはない。用がなければ。
 けれど多分、この屋敷が外側と同じように中身も常軌を逸していることを知っているのは、この街では僕だけなのだと思う。
 両手に持った荷物を置いて、背負っていたリュックから鉈を引き抜く。ここに来るときはいつも持参している、祖母から譲り受けた一級品。ドア周りの蔦を一通り切り払って、適当に捨てておく。三日放って置くだけでこれか。確か三日前もここは切ったはずなのに。嫌な予感がしてドアから一番近い窓を見に行くと、案の定緑葉に覆われていた。これは朝顔。淡い青色の花を咲かせて、見ているこちらの心を和ませる。これは、まあ、いいか。窓の上には雨樋に絡みついて艶のあるきゅうりがいくつも実っていた。こっちは最初の花が咲いていたころに、わざと切らずに残しておいた。そろそろ採り頃だ。殆ど放任だったので不可思議な形のそれらを三本程収穫して、リュックに入れた。屋敷の壁を這う植物は蔓性という点だけが共通している。以前どこから種が飛んできたのか、瓢箪が生っていたこともあった。今はこのきゅうりの他に、ゴーヤといんげん豆、それに南瓜がそろそろ収穫時だったかな。南瓜は確か、屋根のあたりにあったはずだ。あとで梯子を借りよう。
 常軌を逸する。僕はこの屋敷の中身についてそう云った。

「・・・ッ、だから、三和土には置くなとあれほど・・・!」

 ドアが開けば家に入れる。その常識はこの「緑の屋敷」には通用しない。玄関の土間を埋め尽くす本の山を、まずどうにかしなければならないからだ。玄関から奥に通じる廊下にも、その山々は連なっているのだけれど。
 本、本、本。見渡す限りの。右を向いても左を向いても本ばかり。そのジャンルは多種多様。悪く云えば節操が無い。山、というよりは塔という方が正しい。妙に角を揃えて積み上げられた本の塔は、この屋敷の主の、ほとんど唯一と云っていい所有物。
 崩さないように少しずつ脇に避けて、ぎりぎり僕がやっと通れるぐらいの道を作りながら屋敷の奥に向かっていく。早朝、涼しい時間とは言え、決して少なくはない荷物を運びながらのこの労働。はっきり言って拷問に近い。三日でこれなのだ。植物と同類とは。もはや何の驚きもないけれど、とにかく玄関と廊下と埋めるのはやめて頂きたいものだと思う。切実に。本当に。しかし僕のこの願いが聞き遂げられることは、九分九厘の確率で無いと思っている。
 汗みずくになりながらやっとの思いでたどり着いたのは、この屋敷で一番広い部屋である和室だった。ドアを開けてここに来るまでに、既に三十分は経過している。我ながら苦労してるなと感じている。しかしまあ。
どんな苦労にも、理由はあるのだ。

「すずりさん」

 廊下同様、否、廊下より積み上げられた本の塔の群集の中心に、彼女はいた。古びていて、けれど品のあるワインレッドのソファーに横になった彼女は、とてもとても真剣な眼差しで手に持った文庫本と向かい合っている。離れた場所で名前を呼んでみるけれど、反応はない。いつも通り。瞳が緩やかに動いているので、読書中だ。最も、彼女が本を読んでいない時なんて、寝ている時以外、そうそうありはしないのだけれど。これも、いつも通り。荷物を引きづるようにして、ソファーまで近づいた。後ろでバタバタと塔が倒れていく音がしたけれど、あとでまた積んでおくので問題はない。そうでもしないと、足の踏み場がないのだ、この部屋は特に。至る所にダンボール箱が積まれ、少しずつ中身の重みで形を崩しつつある。中身は・・・まあ、云わずもがなだろう。和室とは云ったけれど、僕はこの部屋の畳をお目にかかれたことが一度もない。

「すずりさん」
「・・・・・・」
「すーずーりーさん」
「・・・・・・わあ吃驚した」
「いやそんな無表情で言われても」

 仕方なく本を取り上げて顔を覗き込むと、黒縁眼鏡の奥にある彼女の三白眼に、僕の顔が映り込んだ。抑揚のない声で驚きを表現されたけれど、僕にはまったく分からない。すずりさんは億劫そうに起き上がって軽く伸びをする。そうして僕に振り向くと、小首を傾げた。たった今その存在を認識しました。そんな感じだ。あまり手入れのされていない長く乾いた黒髪を大雑把に一つに纏めると、ひょいと僕の手から本を取り返した。けれど開く様子はない。

「いつ来たの?」
「三十分くらい前ですね」
「そうなんだ」
「そうですよ。廊下と玄関は埋めないで下さいって散々云ったじゃないですか」
「そうだっけ」
「そうですよ」
「憶えてない」
「そうでしょうとも」

 彼女にこの手の注意やお願いはあまり効き目がないのだ。ある意味であまり脳を使わない人だ。ついでのようにお腹が減ったと云われたのでサンドイッチで了承してもらった。さっき収穫したきゅうりがあるし、ちょうど良い。この分だと台所も本の巣窟になっているのだろう。以前、流し台の中にまで本が積まれていたあったことがあって、流石に危険です止めて下さいと窘めたら、それはなんとなく憶えてもらっているようで。本に関してだけ、それだけが、彼女の関心事だ。
 手に持った荷物に一瞬意識を取られたけれど、それはそれ、まあ後でいいか。そう思って台所に向かおうとしたところを、驚くべき力で引き止められた。そして、女性にしてはやや低めの声が、耳元で木霊する。驚きと、期待の色を孕んだ声音。

「あ、あ、あー! ねえ汐崎くん!」
「なんでしょうすずりさん」
「それ! その両手の紙袋ってもしかしなくてもさ」
「今月の新刊ですけど」
「ちょう、だい!」
「あ、」

 強奪された。おまわりさん、この人強盗です。すずりさんは僕に構いもせずに馬鹿でかい紙袋いっぱいに詰められていた本たちをソファーの上に積み上げる。ジャンルは様々だったけれど、そのどれもが今月出版される書籍だった。みるみるうちに彼女の瞳に宇宙が広がっていく。光輝いてる。涎も垂らしそうな勢いだ。その眼はそう、例えばとても美味しそうな料理を目の前にしたようなそれで。
 「読書家」「蔵書狂」「愛書狂」「読書狂」「書痴」「書淫」。英名、「ビブリオマニア」。しかしやはり、「本の虫」という名称が世間では一般的なのかもしれない。大層本が好きで読書ばかりしているような人、本を四六時中読み漁っている人。を。表す時に、使用する。
 本が世界の全てであって、本さえあれば生きていける。息をするように、本を読む。本を以て本を中心にした思考回路と生き様を持つ人々。本を愛して、本に愛される。
 「緑の屋敷」の主、日高すずりは、まさにそんな人々のうちの、一人だった。

「んん、今月はちょっと少ないねえ」
「文庫と新書が多いんで、そう感じるんだと思いますよ。むしろ多いくらいです」
「そっかー、そーだねー。そーかもそーかも」

 手に取った新書を早くも開いてしまったので、もはや僕のことは眼中にない。リュックの中にあったものもあっという間にああ嗅ぎつけられて奪われてしまった。ハイエナ並み。といってもまあ、それら全ての代金はすずりさんから出ているので、僕が文句を云う資格なんてどこにもありはしないのだけれど。この屋敷に世の中の最新書籍を運ぶのは、数ある僕の仕事うちの一つ。
 先程崩してしまった本たちを積み上げつつ、台所に向かった。同時に頭の中で今日の仕事を箇条書き。この和室は南向きなので、それなりに立派な縁側が付いている。が、恐らく三日前から締め切られているだろう雨戸は、きっと内側からは開かない。再び鉈の登場となるだろう。この屋敷周辺の植物の成長スピードは少しだけ常識を外れている気がする。
 階段の前を通って、台所へ。階段。既に予想済みではあるだろう。洩れなく本置き場と化している比較的広めの階段は、段差面が半分以上隠れている。たまに起こる雪崩は、自然現象のようなものだった。上は一階以上に本まみれなので、危険地帯。すずりさんは頻繁に出入りしているらしいけれど。
 台所に続く廊下は歩くと少しだけ軋んだような音をたてる。廊下の床板が僅かに浮いているらしい。きゅうきゅうと鳴くそれに、すずりさんは鶯張り廊下だねと評価した。それを聞いて二条城に失礼だと思ったのは僕だけじゃあないはずだ。侵入者は来ませんよ、きっと。
 台所は土間造りで、当然の如くそこに外履きなど置いてありはしないので、玄関から靴を持ってくる。本棚と化している食器棚の、なんとか僕が確保している空間に、この屋敷の数少ない食器を置いている。食器棚だから食器を収納するのは当たり前で、けれどここではどんな収納家具も本棚になってしまう。それはすずりさんの得意技だった。鍋やフライパン、その他の料理道具は壁に掛けるようにしている。さすがの彼女も、壁に本は置けないので。

「今日のメニューは激安ハムと採れたてきゅうりのサンドイッチ」

 毎日の食事と、掃除、その他家事雑用諸々。毎月の新刊書籍のチェックと入手。それがこの屋敷で僕に課せられた仕事の数々。お給料ももらっている、ちゃんとしたアルバイト。昨日までの三日間は、すずりさんから与えられた、少し短めな夏休みだった。
ここで、激安ハムと採れたてきゅうりのサンドイッチを作る合間に、僕とすずりさんの馴れ初めを、少しだけ話しておこうと思う。
 すずりさんに初めて出会ったのは数年前の夏だった。場所は僕の家の前。小さな本屋を営んでいる僕の自宅前で、彼女はひっくり返っていた。

「・・・・・・」

 傍らには大きな男性用の革のトランクが持ち主と同じように倒れて、その中身を散乱させていた。その中身というのが大小様々な本ばかりで、妙に印象に残っている。本。本。後から思えば彼女がすずりさんで、そのトランクがすずりさんの所有物であったなら、その中身が本であることは当然、だったのだけれど。そこはそれ、その時が初対面だったので。

「・・・あの、大丈夫ですか」

 終業式を済ませてきた帰り道にそんな状況に遭遇してしまった僕はなんとかそう声を掛けることができて、彼女を助け起こそうと手を伸ばした。すると彼女はまるで身体にばねでも入っているんじゃないかと思わせる動きで跳ね起きて僕を見上げると、眼鏡の奥の三白眼を大きく見開いた。美人ではないが、妙に惹きつけられる顔付きをしていると思った。

「ねえ君、ここの子?」

 ここ、と長い指で示されたのは現在はシャッターの閉まっているうちの店で。 

「ここの子です」

 僕はそう言って頷いた。

「今日って休み?」
「臨時休業中です」
「りんじ」
「今日、両親が揃って出てるのでやってないんです。普段は年中無休です。」
「ふうん。残念」

 僕の淡泊な説明に気を悪くしたような様子もなく、彼女は座り込んだまま、形の良い眉を下げてもう一度残念、と繰り返した。

「新しいお店ができたって聞いて来たんだけどね」
「はあ」

 新しい、と云っても、うちの店も僕の家族も、この年の春に越してきたばかりだった。今は夏。だとしたらこの街の人間では、ないのかもしれない。そんな風に僕が思考している内に、彼女は徐に荷物を拾い始めた。本についた埃を払って、トランクに詰め込んでいく。自分の服の埃も払わずに、変な人だなあと思ったのを覚えている。そうして、僕は沈黙に耐え切れずに問い掛けた。

「旅行、ですか」
「ううん、近所。なんで?」
「荷物が大きいし、あと、うち、春に越してきたんで、もうあんまり新しくないし」
「あー、そう。そうそう、私、時事ネタに弱くて」

 言い訳になっているような、なっていないような。多分、なっていない。会話の間に彼女はようやく全ての本をトランクにしまい込むと、さてと、と呟いて立ち上がった。背は、あまり高くない。足元を見ると、吃驚するほど古ぼけたスニーカーが目に入った。

「じゃあ今日は帰ることにする」

 振り返ってそう言った彼女は、僕とすれ違うように歩き出した。つまり、彼女の目的地であったはずの本屋とは、反対の方向に。僕のここ何ヶ月かで蓄えた街の地図情報に間違いがなければ、そちらには僕が通っている学校と、取り残されてしまったような竹林があるだけだったはずで。

「あの!」
 
 引き留めたときには、既に彼女の姿は半分ほどになっていて僕は少しだけ声を張った。

「んー?」
「何の本、買いに来たんですか!」
「え?」
「本、取り置き、しときますから!」

 折角来てもらったのに。そういう思いが先行していたと思う。特定の本が目当てだったのなら、次に来たときにちゃんとそれが店にあるように。そんな、思いが。
 けれど。

「全部!」

 溌剌とした声は彼女のもので。その答えは僕の予想を遥かに超えていた。ぜんぶ。

「今月の新刊、全部欲しかったの!」
「・・・え、」
「また明日来るからさ、じゃあねー」

 うふふ、と笑った彼女が、陽炎の奥に消えた。残されたのは、茹だるような暑さと、噎せ返る程の熱気。そして僕。 蝉の鳴き声が、僕の身体を侵食するようだった。

「・・・全部って・・・全部?」

 呆けたように呟いた問いに答えてくれる人なんて、いるはずもなく。まるで狐に抓まれたような気分で、その日は早々に布団の中に潜ったのだった。今月出版された、書籍の数を数えながら。
 けれど、「明日来る」といいながら、彼女はその翌日は姿を現さなかった。僕は珍しく自分から店番を請け負ったのに、その翌日も、その翌々日も。あっという間に、一週間が経っても。
 仕方なく僕は独自情報網(主に友人達とご近所)を展開し、「えーっとなんかとにかく本まみれの女の人」という特徴だけを元に情報収集を開始した。長丁場になると思われた捜索作業だったが、彼女の正体は案外すぐに、割とあっさりと判明した。

「それ、『緑の屋敷』の人だろ」

 この街に越してきて最初の友人である柳は、僕の問いに対してそう答えたのだった。

「緑の、屋敷・・・?」
「あーそっか、お前知らないよな。ほら、街の外れに竹林あんだろ?」
「うん」
「あの奥にだな、でけえ屋敷が建ってんだよ」
「屋敷」
「そ。昔、偉い大学教授だとかが建てた屋敷らしいんだけどな。今は多分、汐崎の云うその女の人ってのが一人で住んでんだそうだ」
「へえ・・・で、なんで僕の言った人がその人だって分かったんだ?」
「そりゃまあ、竹林に歩いてったってことと、あとは本のことがあったからな」

 そう言って柳は少しだけ上を向いて、思案するように視線を泳がせた。

「あー・・・何だっけ、でかいトランクに本一杯?」
「ぎっしり入ってたけど」
「噂がな、あるんだよ」
「うわさ?」
「『緑の屋敷』の住人っていうのが、とんでもない読書狂だっていう、そういう噂がさ」

 本屋に行っては大量に買い込んでいくという話だった。この町から、電車を何本か乗り継いだところにある、古本屋ばかりが立ち並ぶ町(そこは僕も何度か行ったことがあった)では、殆ど生ける伝説のような存在になっているとか、いないとか。その話もまあ、噂の域を出ないが。
 でも、いくらなんでも狂≠ネんて、言い過ぎだろうけどな、と、柳は体育会系(バスケ部)らしい実に爽やかな笑みを浮かべたのだ(ちなみに、彼はどちらかと云えば、否、どちらからと云わなくとも顔が整っている方だ)。しかしその噂が、まさに真実以外の何物でもなく、むしろ真実以下のものであったと僕が思い知ったのは、その翌日のこと。
 八月の新刊を抱えて竹林の奥に進んだ僕を待っていたのは、夏の新緑に包まれた洋館もどき、「緑の屋敷」とその主人、日高すずりとの邂逅だった。

「すずりさん、サンドイッチできましたよ」
「・・・・・・」
「すずりさん」
「・・・・・・」
「すーずーりーさん」
「えっ、あ、はいはい! サンドイッチね、サンドイッチ。宜しくね」
「もうできました。本閉じて下さい」
「はいはい、分かってるってば。えっと、栞ー・・・あれ、栞は?」
「そこの隙間に落ちてますよ」
「あ、あったあった」

 書痴、殊にビブリオマニアは二つの型に分けられるというのは、僕の知識では、ないのだけれど。分類、が、あるのだという。とにかく文章が読めればいいというタイプと、「本」そのものを収集するタイプだ。前者は、活字中毒者がそれに近い。
 すずりさんはどちらかと云えば後者だった。蒐集型とも云うらしい。コレクションのように本を集め、保管し、抱え込む。金と場所ばかりを浪費する。全く以て救いようのない収集癖だった。すずりさんも狂ったように本を買い集める。新刊から、古本。一冊何万もするような江戸時代の和綴本に至るまで。もちろん本も読む。読んで、集める。集めて、読む。今の様に、数々の本に囲まれている姿が、僕が一番見慣れているすずりさんの姿だった。それ以外は、あまり知らない。
 しかしおおよそにして、蒐集型の書痴というのは、自らが手に入れた本を、もはや異常とも言える程の愛情を注いで大切に扱うものであるらしいのだけれど、すずりさんに限ってその傾向はみられなかった。
 本は積み上げる。平気で日に晒す。倒す。折る。蹴る。などなど。いや勿論わざとでは、ないのだけれど。屋敷内の様子からも分かるように、すずりさんの本の管理状況はそれなりに酷いものとなっている。生粋のビブリオマニアが見たら卒倒してしまうんじゃないかと、思えるくらいには。本好きでなくとも、移動もままならないの状況はなんとかしたい。とは思う。なんとか。
 そろそろこの本の塔どうにかしませんか、と、僕が欠片の期待もしないままに言ってみれば、早速サンドイッチを銜えたすずりさんが、ぐるりをソファーの周りを見渡した。

「そうだねえ。本棚買う?」
「とても良い案だと思いますけど、ね」

 既に壁という壁が本がぎっしり詰まった本棚で埋まってしまっているこの屋敷に、更に新しい棚を収容する余裕があるとは思えなかった。とうとう外に進出する日が来るかもしれない。
 丹精込めて作ったサンドイッチを瞬く間に食べ終えてしまったすずりさんは、諸々の問題を本気で考える気はあまりないようで、ばふんとソファーに沈むと、手元で開いていた分厚いハードカバーで顔を覆った。くぐもった声が、呻くように届く。

「地下の本棚もそろそろ危ないのがあるしなー」
「そうなんですか」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・えっ?」
「え?」
「え? あ、いま・・・は?」

 思いも寄らない言葉に、喉が絞まったような気分だった。地下・・・だと・・・?

「地下室、あるんですかこの屋敷」

 少々声が震えていたかもしれない僕の質問に、すずりさんは本から両目だけを出した。

「ん? あれ、知らない?」
「初めて知りましたよ」
「あるんだよ、地下。じいさんが大工さんにお金積んで造ってもらったやつが」

 じいさん。柳の話にあった「偉い大学教授」だ。その分野の人間ならば誰もがその名前を知る、近代日本文学の権威だったそうで。生前、すずりさん以上の書痴(それは僕の想像の範囲内ではない)であった彼は、保管しきれなくなった膨大な量の本を収容する彼の本箱としてこの屋敷を建てたのだという。晩年はここでお手伝いさんと二人、本を集めつつ、そして本を読みつつ暮らしたのだとか。二階にあるのは殆どじいさんの本なんだよと、僕は以前すずりさんから聞いていた。
 ああ、そうか。これでようやく納得がいった。すずりさん以上の・・・という割には、やけに本の量が中途半端だなと思ってはいたのだ。この屋敷の二階で収まるような冊数なら、屋敷を建てるまでもない。・・・とは言え十分桁外れでは、あるのだけれど。しかしなるほど地下室があるのなら、その量は桁外れどころではないのだろう。

「けど地下への入口なんて、見たことありませんよ」
「んん? その食いつき様は、もしかして汐崎くん、地下室行きたいの?」

 きょとんと小首を傾げて、三白眼が丸く開いた。図星を突かれた僕は、なるべくそうと気取られないように、あくまで平然な顔を繕って「いや、行きたいってほどじゃ」と緩く峻拒の気概を含んで返答した。内心、近年稀に見る興奮具合だったにも関わらず、だ。
地下室なんて、日本の一般家庭において滅多にお目にかかることなんてできない。少し・・・否、かなり。かなり見てみたかった。例え本だらけであったとしても。地下室。デパ地下などというものとは違う、耳慣れない響きが、僕の好奇心と少年心を掻き立てる。しかしそれにも関わらず咄嗟に見栄を張ってしまったのは、なんだかそんなことで勢い込むなんて、いささか恥ずかしい気もしたからだった。思春期の心情としては。
 そんな僕の心中を知ってか知らずか、すずりさんは今日僕がここに来て初めて立ち上がると、ぐぐぐと腰を伸ばすように背を反らした。ぽきりぽきり。乾いた音は、固まっていた関節が動き出す音だ。

「じゃ、見に行こう。棚の点検もしたいしさ」
「えっ、あ、はい。行きます」

 ガッツポーズ。

「こっち」

 欠伸と手招きに導かれて案内されたのは、例の鶯張り(すずりさん談)の廊下だった。そこで突然、「本退けてね」と、すずりさんが言ったので、僕は思わず聞き返してしまった。え?

「ここの本をね、退けないと」
「この廊下のを、全部ですか」
「ええっと、こっから、ここまでで大丈夫」
「・・・けっこうありますよね」

 線引きされた部分。まずは廊下が開けばいいという話だったので、後のことを考えずにすずりさんと二人で運んでは積み上げていくことにした。重労働。なんとか床が見渡せる程になったところで、すずりさんは気難しい顔をして廊下を凝視する。更には足で廊下を踏みながら確認するような仕草をしだして、僕の期待はますます高まってしまうのだった。これは、もしかして。

「ここを、こうして・・・ん、あれ、こうだったっけな」

 しゃがみこんだすずりさんが首を傾げつつ少々手を動かすと、カタンと何かが外れる音がした。そのあと、木材同士が擦れる音とともに廊下の床板が持ち上がっていった。僕から見て床板の奥の端は廊下に繋がったままで、すずりさんが持っている方だけが開くようになっている。・・・蓋。そう。云うなれば蓋のような。まるで忍者屋敷だ。きゅうきゅうと鳴く床下の鶯は、この仕組みから生み出されたものだったのだ。
地下室。更に隠し入口。すずりさんのお祖父さんとは話が合いそうだ。・・・いや、気のせい。
 すずりさんは開いた板を反対側に倒すと、暗いからね、と僕に忠告してから下に降りていった。穴の中を覗いてみればなるほど確かに階段が続いている。木製の階段。奥には暗闇しかなかった。ライトか何か、必要な気がする。けれどもう後戻りはできない。僕は恐る恐る、一歩一歩を足で確かめながら地下室へと降りていった。暗い。大きな生き物の口に、飲み込まれていくようだ。
闇のせいか、階段は長く長く、ずっと続いているように思えた。実際には体感した半分も降りてはいないのだろう。しばらく降りていくと目前に明かりが見えたので、どうやらそこがゴールのようだった。すずりさんは一番最後の階段に腰掛けて待っていてくれた。ふと、その横顔が途方に暮れているようにも見えたけれど。

「・・・うわあ」

 階段を下りたらすぐに地下室だと思っていたけれど、まずあったのは廊下だった。屋敷と同じ、板張りの廊下だ。百七十ちょっとある僕の背より、少し高いくらいの天井。幅だけはやけに広いのが分かるけれど、実際には人一人がやっと通れるような通路しかなかった。当然、両脇には本棚が続いているからだ。、その奥に扉が見えている。本棚に収まりきらなかったのか、そこら中に本が横にされて積み上がっていて、あれ、この風景、さっき見た。

「たった今血筋というものを見た気がします」
「嬉しくないなあ・・・どっちかって云うとじいさんの方が面倒だよ。ほら見てよー、本棚の入れ方すんごく適当でしょ」

 指で示された一番手前の本棚を見ると、すずりさんの言うとおり、本棚に入った本はとてもとても適当に突っ込まれてしまった感があったけれども。

「私だってちゃんと立てて入れるよ、本」
「まあ、そうですね。そこは、ちゃんとしてますね」
「地下室の棚なんて全部そんな感じでさ。昔整理したんだけど、廊下はまだできてないから」
「へえ・・・」

 ちょっと帰りたくなってきました、とも言えず。

「とにかく、ちゃんと避けてきてね」

 慣れた風に、積み上げられた本の塔を避けながらすずりさんが扉へ向かう。僕も同じように避けつつあまり時間をかけずに到着した。伊達にこの屋敷に通ってはいない。扉もやはり木製で、屋敷の玄関の扉を同じく妙に凝ったドアノブが僕たちを待っていた。これもお祖父さんの趣味なのかもしれない。すずりさんがドアノブを握って、ゆっくりと押すと、蝶番が油の切れた金切り声をあげて、ちょっとした肝試しのようだった。
すずりさんが手を伸ばして、ぱっと明かりがついた。眼前に広がった、そこには。

「・・・もう完全に図書館、ですね。それか、神保町の古本屋」
「最っ高の褒め言葉をどうもありがとね」

 ずらりと並んだ本棚の数は、初見じゃあ把握することはできない。壁はもちろん全て本棚で埋まり、しかしどうも隙間を見てみると煉瓦造りのようだ。昔何かで見たワインセラーが脳裏に浮かんだ。地下室に一歩入るとひやりと冷たい空気が肌を撫ぜる。廊下よりも数段低く作られたその部屋は、天井も随分高い。そこにあるのが本棚だけなら、本当に図書館だったけれど、やはり例に漏れず床に直接本が積み上がっていたり並んでいたりしているので、広い部屋のはずなのに狭苦しい。ただちゃんと通路のようなものは確保されていて、そこだけは屋敷とは違っていた。
 しかしまあ。

「この広さ、土木建築関係の法律に触れている感が否めません」
「黙ってれば大丈夫よー」

 久しぶりに来た、と呟くすずりさんはどこか懐かしそうな目でここを眺めている。本当に久しぶりなんだろう。数年は来ていないはずだ。少なくとも、僕がここに通い初めてからは、多分。その理由が何なのかは分からない。分かるはずもない、と思う。
 こっちだよ、と、更に手招きされた。すずりさんに従って、本と本の間を進んでいく。そして、丁度入口の対角線上、地下室の壁際、片隅にあったのは、床より一段上に作られた畳張りの一角。六畳の広さ。文机。その上には写真立てが伏せられていた。

「ここは?」
「休憩所みたいなもの、かな。ここで文章書いたりとかしてたみたい。あはは、畳ぼろぼろになっちゃってるや」

 すずりさんはそんな風に笑って、腰掛けた。どうぞ、と云われたので、遠慮なく隣に座った。

「涼しいですね」
「地下だしねえ。冬はでも暖かいよ」

 じいさんはここに布団も持ち込んでたんだって、という話だった。地震が起きたらまさに本に埋もれて死ねそうだ。その方が本望だろうか。すずりさんのお祖父さんは結局老衰で亡くなった。

「外の植物たちも、お祖父さんの趣味ですか」

 聞いて、縁側の雨戸に雁字搦めになっているだろう蔓性植物たちを思い浮かべた。

「そうそう。でもね西洋にあるお城みたいにしたかったらしいけど、周りが竹林だから大失敗」

 そんな風に孫に言われてしまってはお祖父さんも浮かばれない。確かに不気味ではあるけれど。

「・・・あ、そうだ。南瓜がそろそろ熟れてるんです。何がリクエストありますか?」
「いいねえ、南瓜好きよー。パンプキンケーキが食べたいな」
「せめて夕食で食べられるものにして欲しかったです」
「ええ? そんなの朝飯前だよ!」
「夕食ですってば」

 静かな空間だった。地中の中にいるのかと思うと、不思議な気分だ。期待していた地下室は案外あっさりと僕の中に受け入れられて、火が消えてしまうようにゆっくりと気の昂ぶりも収まっていた。本の塔のお陰であまり屋敷と違うところを見つけられなかったからだろうか。しかし地下室の広さと圧倒的な本の冊数はやはり驚嘆に値するものがあって、僕は小さく溜め息を零す。
 本。本。本。
 本が世界の全てであって、本さえあれば生きていける。息をするように、本を読む。本を以て本を中心にした思考回路と生き様を持つ人々。

「汐崎くん」
「何ですか?」
「本は、好き?」

 それは。
 それはすずりさんと二度目に出会ったときに聞かれた質問だった。緑に包まれた屋敷の中で、本に囲まれて笑った彼女は問うたのだ。ねえ君、本は好き?
 僕は、何と答えたのだったか。

「・・・ええまあ、よく読みますよ」
「ふふ、答えになってないよ」
「好きとか嫌いとか以前の話なので」
「以前」
「読書の習慣が、物心つく前に刷り込まれてたんですよ」

 本好きの両親の計画が、三度目にしてやっと成功した結果が僕だった。他の二回、つまり僕より先に生まれていた二人の兄は、嫌いとは云わないまでも、その反動であまり本を読まなかった。
 兄たちは僕が本を読んでいるところやっきては、何故か僕を外に連れ出そうと躍起になったものだった。その思惑が成功した試しは、あまりなかったけれど。
 絵本から始まって、児童書、小説、エッセイ、ノンフィクション、評論エトセトラ。けれども洋書を原文のまま読んでしまうすずりさんと違って、僕は日本語以外の言語に通じていないので、そのせいなのかどうなのか、洋書は翻訳されていたとしてもあまり読むことができない。
 とにかくまあ、僕と本は、既に水と魚のような、そんな関係で。そういう意味では、僕も既に人並み以上には本の虫なのだろうとは思う。

「すずりさんは」
「私? 好きだよー。大好き。とっても」
「・・・ですよね。知ってました」

 好きでもなければ。
 好きでもなければ、抱えないだろう。それが世界の全てとでも云うように。それが自分の全てだとでも云うように。

「でもね生まれた時から、好きだったわけじゃないんだよ」

 そこは汐崎くんの方が上だね、と云って笑う。何が上なの分かったものじゃない。

「今更だけどここねえ、うちのじいさんが作ったんだけど」
「ほんとに今更ですね」
「うん」
「大学の教授だって、聞きました」
「あれ、知ってた?」
「いえ、噂程度ですけど」
「そっか。私もあんまり詳しいことは知らないのさ。仕事してるとこは見たことないから」

 本読んでるか、寝てるか、ご飯食べてるかくらいだったよ、とすずりさんが云う。その言葉、完全にあなたに返ってきますけどいいんですか。しかしまあ、それは口に出さずに。多分自分でも分かっているだろうし。分かって云っているのだろうし。
何が面白いのか可笑しいのか、すずりさんは頻りにうふふと笑っていた。彼女が、よく笑う人だというのは、出会った当初からの印象だった。
 けれどそうして、いつのまにか、笑っていなかった。

「じいさんがね、云うんだよ」

 ぽつりと呟いたその言葉は、あまり聞いたことのないようなすずりさんの声音で。何故か、今彼女の方を向いてはいけないような気がして、僕は訳もなく息を潜めた本棚の列を見つめ続けた。

「『私が死んだらお前、全部受け取ってくれよ』って。小さい頃からずうっと云い聞かせられてたもんだから、もう意味なんて全然分かんなくてさ」
「全部、ですか」
「そう。全部。でもねえこの地下室見て、ああ、そうかーって。これがじいさんの全部で、これは私が持ってなくちゃいけないんだなあって。思ったんだ」

 それは義務感のようでもあったけれど。とにかくすずりさんは、本を読んだ。何かに取り憑かれたように。急かされるように。まずはお祖父さんの蔵書を漁って読み始め、全てを読み終わったところで、気づいたら本が彼女の全てになっていたと云う。気付いたら。気付く間もなく。
 それはまるで、彼の人の「本」に対する執着すらも引き受けてしまったように。

「・・・とまあ、あまりしない昔話なんかをしてみたんだけど」

 ふと、我に返ったようにこちらに向いて、どうだった? なんて、感想を求めてくる。

「抽象的過ぎてあまりよく分かりませんでした」
「そっか。別にそれでいいんだよ」

 やはりうふふと笑って、すずりさんは立ち上がる。ちょっと棚見てくるよう、と独り言のようにそう云って、本棚の間に消えた。そうして僕はちょっとだけ息を吐いた。すずりさんの昔話なんて、確かに今日初めて聞いた。実際、彼女のことを僕はあまりよく知らないのだ。この屋敷に住んでいる経緯も、その理由も。それを、たった今垣間見た気は、したけれど。
 ふと、文机の写真立てが気になった。どうしてなのかは分からない。魔が差してしまったような感じだった。だから音を立てないように畳の上にあがり、そっと写真立てを裏返した。若干大きめに作られていたそれは、二枚の写真が入れられる仕様になっていて、一枚の写真には、白黒で、年若い仏頂面の男性と、その横で穏やかな表情をした女性が笑っていた。背景がないところを鑑みるに、どうやた写真館のようなところで撮ったものらしい。二枚目はもう少し時代が進んでいて、カラーになっている。白い口ひげを蓄えた少しだけ気難しい顔をした老人と、その膝に小さな女の子が大きく口を開けて片手を上げている。その男性も老人も、小さな丸眼鏡を掛けていた。だとすれば、この人が。この女の子が。
 思い至った僕は同じように写真立てを伏せると、本棚の通路に踏み込んだ。いくつか通路を覗いて、すずりさんの姿を探した。しばらくうろうろして、漸く、分厚く重そうなハードカバーを開いてしゃがみこんでいたすずりさんを見つけた。

「すずりさん」
「ん、なあに」

 きっと本を読んでいたはずなのに、珍しくも一声で気づいてくれた。あれ珍しいなあ、なんて、違う僕が頭の片隅で他人事のように嘯いている。

「すずりさんは、かなりイっちゃってる書痴だと思います」
「え、あれ? いきなり貶された?」
「申し訳ないですがすずりさんのおじいさんも、相当な書痴だと思います」
「そ、そだね。いいよ事実だから」
「でもですね」
「う、うん」
「すずりさんはすずりさんなので」
「うん・・・?」
「そんなすずりさんが、僕は好きなので。あんまり変なこと考えないで下さい」

 僕がそんな風に言葉を繋げてみると、すずりさんは一瞬目を見開いて、そうしてありがとう、と笑った。その笑顔は、写真の女の子と、まったく同じもので。そうして、本に囲まれて微笑むすずりさんが、とても幸せそうに見えたので、ああ大丈夫そうだな、と僕は思った。

20120910

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -