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 真夏の夜の夢、なんて陳腐なフレーズが頭を過ぎったけれど、そこはそれ、青年の知識はそこまでであったので、彼の思考は行き止まった。曲の名前だったか、喜劇の名前だったか。そのどちらでもあったような気がもする。どちらでもなかったような。
 闇。闇に浮かぶ赤い提灯。灯りに照らされた人の波。祭というのは異世界だ。とろりと煮えたような空気がどこか狂気を思わせる。呼気で噎せ返った祭場は、昂った人々を受け止めるだけで膨らんでいった。赤と黒は、人の奥底に潜む色だ。
 夢を見ているみたいだ、と青年は惚けたように呟いた。言い得て妙ね、と彼女は無感動に返した。微睡むように半分閉じられた瞳の奥に、光は少ない。

「妙?」
「夏は人の夢が凝り固まってできているから」

 漠然としたそれに青年は困ったように苦笑した。青年が彼女と出会ったのはついさっきのことだったれど、そのわずかな時間だけでも彼女が口数の少ない方であることは把握していた。恐らくきっと、あまり人好きのする方ではないことも。だからこそ彼はあまり彼女に近づくことのないように一定以上の距離を保って歩いていたのだし、彼女の思惟へ余計な言葉を挟まぬようにしていたのだ。けれどその配意が一瞬でも途切れてしまったのは、やはりこの妖しくも享楽に満ちた雰囲気に呑まれてしまったからなのだろう。
 いつのまにか隣で歩いていたはずの彼女が一歩だけ後ろの位置に居ることに、青年は気づいていた。慣れない下駄で足を痛めたのだろう。彼女の着る紺地に鬼灯を描いた浴衣は、まるでこの祭を刷り染めたようだった。

「ねえ」
「なに」
「かき氷、食べる?」

 誘いが断られることはなくて、青年は少しだけほっとしていた。明確な返事があったわけではなかったけれど、彼女が小さく頷くのが見えたから。
 みぞれと餡子をかけたそれは、視覚から凛とした冷たさを感じさせる。安っぽいプラスチックのカップが、みるみるうちに手の温度を吸収していった。
 人で埋まった大通りを一つ逸れると、寂寥感の満ちる路地が伸びている。喧騒が遠い。路地に置かれた、長く誰も座らなかったであろう赤錆びたベンチに座ると、やはり一定の距離を保って彼女も腰を下ろす。カップをもつ指先から熱に融けた水が滴って浴衣に染みを作った。ストローで出来た頼りないスプーンで氷を掬いとって口に運ぶと、やはり先ほど思い起した通りの冷涼が喉元を通り過ぎて、じんわりと額から汗が垂れる。
 下駄を投げ出した彼女の足先が仄かに赤みを帯びている。彼女は食べている間も当然のように寡黙であったのだけれども、美味しい、と短く呟いたその一言に、青年は口元が緩むのを感じていた。

「鬼灯」
「え?」
「鬼灯の花言葉、知ってる?」
「・・・ん、いや、知らない」
「『偽り』と『欺瞞』」
「へえ」
「あと」
「うん」
「『私を誘ってください』」
「・・・」

 誘ってくれて、ありがとう。そう言って彼女は、嫋やかに笑った。

20120719

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