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「彼は犯罪者ではあったが、やはり世界に必要な存在だった」

 おおよそ、彼または彼らを知る人々が時を経た今殆ど耳にすることのなくなったその問を受け取ると暫しの懐旧の後に皆一様にそのような言葉を口上に乗せて笑みを作った。小さな漁村でも華やかな港町でも或いはかつて彼らの敵であったであろう人々でも返ってくる言葉は殆ど違うことはなかったがその笑顔が顕すのは時に親愛であり悲哀であり自嘲だった。
 正義と悪の境界線を画することなく始まってしまった戦争がもはや終わりを知ることはなかったことに気づいたのは皮肉にも正義を最大で最終の目的として火蓋を切ったはずのそれの最中のことだった。終幕を知らずに膨れ上がった憎悪と虚飾はあの瞬間に爆発したように思える。あの戦争で時代が変わることを予言した人々は果たしてそれを望んでいたのかどうか今となってはその真実も海の底へと沈められているが正義と悪の境界は曖昧なままに頂上と呼ばれた者達の衝突はそれぞれ多過ぎると言っても良いほどの犠牲を払って一時的な終息を得る。彼らを喪った世界が歴史を繋ぐ直線の中で点から点へと終着したその直後、二極化されてていたはずの世界は辛うじて保っていた危ういバランスを脆くも崩してしまったが、その全貌は更に混沌を極めたように見えた。凄まじい勢いで新しい時代が幕開き全てはそちらに向かって動き始めたと言っても過言ではない。一時の休息も、安息の一瞬もありはしなかった。生き延びた者たちが焦燥とともに歩み出した。しかし果たしてあの場所で命を散らした者たちは、彼らは、彼は、安息を得ることができたのだろうか。
 世界の歯車として、真実を伝う徒として、今まで文章を綴ってきた私の筆は、あの戦争での真実の全てを伝えるにはあまりにも未熟だった。私も画面の向こうを他人事のように見つめる衆愚の一人だったはずなのに、あの点から点への直線の中で起きた出来事が私の手を止めさせるのだ。伝えきれるものか、と。上司や同僚たちはそんな私を心配してくれ休養を与えてもくれはしたが既に私自身が己のこの感情をどうすることもできないことを一番よく分かっていた。見限って、いた。自分の筆を、同時に、記者としての自分を。
 何故あの戦争が、彼らの死がこうまでして私の心に干渉するのか。分かっていたはずなのだ。あの日から数ヶ月前、小さな港町での出来事が、全ての原因なのだろうと。
 青年は快活としていた。見るからに肉体労働に従事していることが分かる筋肉の張った屈強そうな体と、程よく日に焼けた小麦色の肌は、彼が既に少年と呼ばれるほどの弱さを持ち合わせていないことを顕していた。青年は通り過ぎる漁師達との短い会話を終えると桟橋の端に腰かけて波一つない海原を何とは無しに眺めていた。足元には恐らく彼のものであろう小舟が、長年の従者であるかのように水面に浮かんでいる。時折漁師たちが行き来するだけで朝方の活気づいた姿は影を潜めていた港で、私はと言えば潮風による錆の目立つ白いベンチに座り、最初のうちは彼を視界の端に捉えながらも次第に締め切りの迫っていた原稿に思考を占領されつつあった。彼がいつの間にか目の前に立っていたことに、だから私は気づくことができなかったのだ。
 ちょっと聞きたいんだけど。掛けられた声は私にしてみれば虚を突かれたような形になって思わず肩を弾ませてしまった。顔を上げた先にあったのは先ほどまで桟橋にいたはずの青年で、その人当たりのいい笑顔に私は少しだけ安堵したことを覚えている。今まで仕事のために訪れた町では治安が良くても悪人がいないわけではなかったので単独滞在の人間は狙われ易いことを知っていた私は自然と他人に対する警戒心が強まっていたのだろう。もちろんこの瞬間に青年が笑顔のまま私の頭を殴りつけるという可能性も零ではなかったのだが。聞きたいこととは?私が聞き返すと人を探しているのだという返答があった。私を見る青年の双眸は真摯で、仕事柄人間を見ることの多い私の脳が、彼が嘘をついていないことを伝えていた。私が続きを言うよう促して、青年が身振りと共に説明した探し人の人相は残念ながら私の記憶を刺激するものではなかったので正直にそれを告げた。青年はそれを聞くと落胆した様子もなくそうかと一人頷くと、ありがとうございましたと頭を下げた。突然すみませんでした、とも。随分と礼儀正しいその言動に、違和感を感じた私がいた。確かに歳のことを言えば私のほうが彼よりも二回り以上は上であっただろうからその言葉遣いは正しいものではあるはずなのだが、何と言うかそれは彼には似つかわしくないと、そんな気がしたのだ。
 見失ったなァ。呟かれた声には何の感情も含まれてはおらず、感情豊かに見える彼の雰囲気とは離れているようで、私の口からは人探しなら酒場に行けばいいだろうと差し出がましいだろうがついそんな言葉が突いて出たのだった。一瞬だけ虚を突かれたような顔した青年はけれどすぐに破顔してありがとうと再び頭を下げた。早く見つかるといいね。社交辞令として私がそう口添えると、見つからないほうがいいかもしれないという思わぬ返答があったので思わず問い質すように体を乗り出してしまったのは仕方ないことだろうと思う。でも君は彼を探しているんだろう? そうなんだけどさ。ここで漸く、少しだけ疲れたようなしかしその疲労は肉体的なそれではなく精神的なところからきているのであろうことを顕した溜め息が、彼の感情らしい感情として潮風に攫われていった。よければ話を聞こうか。青年のその様子は私がそう言ってしまうのに十分な動機となるものであって。ベンチに広げていた新聞や本などの荷物を片付けながら青年の足元を盗み見て、すぐに視線を反らした。彼を見ないように。もしも私が突然見知らぬ男にそんなことを言われれば早々にベンチから踵を返していただろうことは間違いがなかったから。青年が同じ気持ちであるならおそらくは私が顔を上げる頃には既に街の中に消えてしまっているだろうと、私はそう推考していたのだ。
 しかし私の予想はベンチに人一人分の空間が空いて、そこに青年が遠慮がちに腰を下ろしたことによって思いの外早くに打ち破られた。うまく言えるか、分かんないけど。申し訳なさげにそうやって前置きする青年に気にすることはないと笑いかける。そんなところからもこの青年の人の良さが伺い知れるようであった。
 家にさ、帰れないんだ。帰れない? うん。あ、えっと、道に迷ったとか、そういうんじゃなくってさ。ああ、分かっているよ。何か理由があるんだろう?・・・理由っていうか、なんだろうな、帰り辛いのかも。帰り辛い? おれには家族が、いるんだけど。それは幸せなことだね。うん、幸せ、なんだけど、おれ、家を飛び出してきちまってさ。おや、喧嘩でもしたのかい? いや、喧嘩じゃないんだ、おれが、勝手に・・・後ろから兄弟たちが名前を呼んで止めてくれたけど、おれは聞かなかった。頭に血が上って、多分、きっと酷いことも言ったと思う。 親御さんにも? ・・・分からない。親父は、普段俺達のすることには口を出さないんだけど、あの時だけは違ってたから。止められたんだね。・・・親父には親父の考えがあったんだろうけどさ、おれは嫌だった。だから、一人で家を出たんだ。・・・みんな怒ってるだろうな。あいつを見つけても見つけなくても、帰り辛いんだ。なんとなく。帰りたいのにさ。 後悔してるのかい? いいや、してないよ。
 そう言ったときの彼の目を、私は決して忘れることはないだろう。まさしく炎のようだと、そう感じたのを覚えている。今の今まで不安げに揺れていたはずの瞳の奥には、猛々しくも透き通った光があった。私は何か間違いを指摘されてしまったときのように心臓が跳ねるのを実感した。その目にこの青年の生き方の片鱗を、垣間見た気がしたのだ。青年の横顔に過去に生きた誰かの面影を、脳が訴えた。
 語り終えた青年は自嘲気味に小さく口端を上げると変な話でごめんと目を伏せた。初めの口調は既に崩れてしまっていたが、やはりこちらのほうが彼らしいと、私は頭の隅で頷いていた。それと同時に今目の前にいる若者に人生を先に歩む者としてどのような言葉をかけるべきか、思考を展開した。
 話してくれて良かった。君みたいな若い人とはあまり会話をすることがないから。 でもつまらなかっただろ。 そんなことはない。君は真剣に悩んでいるのにこんなことを言うのは気が咎めるけれど楽しかった。 別に、おれは気にしないけど。 若い頃を思い出したよ。私も昔家を飛び出したことがある。 あんたも? ああ。男なら誰でもあることだよ。君と違って私はいつも父親に反抗してばかりだったのだけれどその日は特に酷かった。彼に罵詈雑言を振り掛けて、玄関を蹴り開けたんだ。 ・・・・・・おれが言えることじゃないけど、酷いな。 いや君の言う通りだ。一ヶ月連絡を絶って戻らなかった。けど持って出た金が尽きて、私を探し当てた妹達にも説得されて、私は渋々家に戻った。父親は台所で何か食事を作っていたよ。滅多に料理をしないのに。そして私を見た。私は殴られると思った。まだ自分の非は認めてなかったが、酷いことをしたとは思っていたから。 ・・・それで、殴られたのか? いいや。 違うのか。 抱きしめられたんだ。母親と妹達にだけでも連絡をしろと言われたよ。後から聞けば私の身を案じて夜も碌に眠れていなかったんだそうだ。 ・・・良い親父さんだな。 ああ、ありがとう。聞けば君の家族も相当に家族思いのようだけど、君は家族のことは好き? ・・・好きっていうか、さ、好きとか嫌いとか、そういうんじゃないんだよな。いないことが考えられなくて、いることが当たり前で。家族がいるから、おれは生きてられるんだと思う。 そう。きっと君の家族も同じ気持ちのはずだ。
 青年ははっとしたように顔を上げた。私は小さく微笑むと、目の前に広がる海へと視線を移す。潮風は安らぐように穏やかで、太陽は既に赤く染まりかけていた。
 怒ってなどいないさ。君のことをとても心配している。彼を探すも探さないも君の自由だけれど、君が家へ帰ることは、君の家族が望んでいることだ。
 私の言葉がどれだけ青年の心に入っていったのか、分かりはしなかった。もしかしたらやはり通じなかったのかもしれないし、よく聞いてくれたのかもしれない。けれどありがとうと腰を上げた彼の表情は背中に広がる海のように穏やかで静かなもので、私はそれで十分だと思ったのだ。じゃあ、と小さく手を上げて明かりが付きはじめた街の中へと消えていった彼の背中を、私はいつまでも見送っていた。
 その数ヶ月後、青年は家族のもとに帰るのだ。彼の死とともに。
あのとき私が青年を止めていれば、きっと今の世界はなかったのだろうと思う。私の存在は世界の小さな歯車に過ぎなかったが、少なくとも彼はそうではなかったのだから。しかし私がそのことを知る術はあの時にはなかったし、あったとしても私にはどうすることもできなかったのだろう。何故なら私はただ歯車で、彼は燃え盛る炎だったのだから。分かってはいる。分かってはいるのに、私の心にはいつまでもその事実が棘となって突き刺さっている。
 彼の父親は、家族は、彼を看取ることができたのだろうか。あの混乱を考えるとそれの可能性は限りなく低かった。あの時後悔はしていないと言い放った彼の最後の言葉は、一体なんだったのだろう。
 遠い異国の地に、彼らの墓があると風の噂で聞いた。彼らの家族もそこにいるのだろう。私は彼の言葉を持ってその地を訪ねることにした。彼らは私がその地を踏むことを良しとしないだろうが、それでも構わなかった。
 彼らを証言するものとして、私は言うべきことがあるのだ。私のように彼らを知ることを願う者が、私にあの質問を持ってくることがあれば。

「彼らは犯罪者ではあったが世界のことなど考えてはいなかった。全ては家族のためであり、ただ家族のためなら世界を変えることも厭わなかっただけなのだ」



(分かる人には分かるけれども分からない人には分からない感じ。ここを読んでる人の中にどれだけ分かる人がいるかは私も分からないけれどまあ私は満足。)

20120604

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