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 鯨というのは賢い生き物なんだって。だから鯨を食べたら、人間は賢くなれると思う?そう言った彼女は、人差し指と中指の間に挟んだピースの煙を燻らせにやりと口端を上げた。その声に少年は怠惰そうに振り向くと、胡乱な目で彼女を一瞥した。じとり。闇を含んですっかり重くなってしまった瞳が彼女を写す。それでも、瞳奥にはしっかりと光を灯しているのだなあ。不思議な子だなあ。と、彼女は頭の片隅で感慨に浸った。無理だろ、そんなの。半分だけ閉じた目を一ミリとて彼女から離さずに呟かれた言葉が自分に対するものだと気づいた時には、劈頭にて言い放った己が言葉を既に記憶の外に置き忘れていた。はて、私はこの子に一体何を言ったのか。きょとんと惚けた瞬きをする彼女に少年のため息が一つ零れる。視線は、やはり彼女から動かなかった。鯨を食ったところで、人間が賢くなれるわけ、ねえだろ。ふうん、君はそう思うの。間髪入れずに返ってきた答え。どうやら思い出すことができたようだった。笑みは絶やさずに烟草を銜えて、あっという間に白くなった先端。落ちる、と少年が思ったのと同時、赤い火が萎んでコンクリートの上に落下した。ぼとり、と音は立てなくとも、聞こえてくるようだった。まるで断頭だ。そんな、連鎖。そんな、連想。
 風が錆び付けるように海面を撫でていった。二人の眼前に広がるのは二色の青色。あおと、あお。うみと、そら。人のいない港は普段多くの人間が動き回っている場所である所為かまるで廃墟だった。桟橋に横付けされた船は、もう何年も人を乗せずにそこで波に揺られているかのような雰囲気を醸し出している。不気味ではない。むしろ、むくむくと好奇心が湧いてくるようでもあった。
 少年はやっと彼女からその黒い双眸を反らして、手元に移した。彼女の手元に。完璧な白ではない、薄く黄色が雑じった、しかしそれでも真っ白と表現し得る画用紙。その上を、駆け抜けるように鉛筆が走った。走らせているのは、彼女。今し方までその指に挟まれていた烟草は、地面に置かれた屑籠の仲間入りを果たしていた。やっぱり、烟草はピースに限るよ。新しい烟草を火を付けないままに銜える。自他共に認めるヘビースモーカーである彼女にとって、ピースは今だ記憶の中に在り続ける遠い昔に生きていた彼の人との思い出の品であった。彼女一人しか知り得ない、いや、彼女自身も既に鮮明には思い出すことはできない記憶。しかしとにかく幸せだったであろう追憶の代替品としてのピースは、彼女にとってはやはり特別な存在であったのだ。少なくとも女性が吸うような烟草では、ないとしても。少年は、子供だてらにその事実と仮定を少年が思っている以上に理解していたので、彼女の喫煙とその嗜好について特に言うべきことはなかった。好きにすればいいのだ。害を被るのは、結局、彼女と、彼女の肺なのだから。夢中で画用紙を動き回る鉛筆は有り体に言うならばまるで一つの生き物のようであったのだけれど、そんな陳腐な想像をそのまま口にすれば少年が自身の自尊心を大きく傷つけることになるだろうことは明白だった。迂闊な発言をしないようにしなければと少年が決意を固める隣で、鉛筆はしゅるしゅると紙を擦っていく。画用紙の中心に緩くしかしはっきりと引いた線。その上に、黒い巨体が横たわっていた。否、ただ横たわっているのではなく、身をくねらせて、まるで舞っているかのような。その線と巨体の意味を、少年は考えるまでもなく知り及んでいて、彼女も当然それを心得ていた。だからこそ、何も言わない。
 ところで。視線は画用紙に向いたまま、彼女の口が開く。君は鯨を食べたことがある?随分と前に少年がそこらで拾ってきたみかん箱は、彼女のお気に召したようで、彼女が腰掛けるのはそれ以外になかった。比較的長身の部類に入る彼女がみかん箱に腰掛けると、それでも少年と目線の高さが同じになってしまうのが、少年の密かな喜びだった。彼女は子供だからといって少年に高圧的な態度を取ったことなど一度としてなかったのだけれど、少年の複雑な心の内はそれだけでは収まらなかったのだろう。彼女はその想いに薄々気づいていた。だからこそ頻繁にみかん箱に座っていたのだし、少年と同じ目線になることの できるその箱を気に入っていたのだから。鯨食うのは、禁止なんだってよ。思いを馳せるように海へ首を回した少年の目に、青色は写されなかった。ああ、闇が、青を飲み込んでしまった。彼女は密かに思惟する。そうか、禁止か。鯨は賢いから。美味しいのに、残念だったね。残念がるような風でもなくさらりとそう言った彼女に少年は少なからず驚いた。なんだ、何か執着があるかと思ったのに、とは言わなかった。彼女の思考回路は常人には理解できないほどに飛んでしまっていることが多々あるからだ。こちらが思案するだけ無駄である。これは彼女と出会って少年が最初に学んだことだった。あんたは食ったことあんのかよ。もちろん。鯨料理の定番である鯨の竜田揚げの味を舌に思い出しながら、彼女は得意然として胸を張った。どうやら鯨は相当に美味しいものであるらしい。しばらくの沈黙の後、再びの口火を切ったのは少年の方だった。でもよ。彼女の瞳がちょろりと少年へ。でもよ、鯨が賢いなんてこと、誰が決めたんだ?賢い動物なんて、ほかにもたくさんいるだろうにと訳もなく苛立ちを覚えていると、彼女は面白いものでも見るかのように喉の奥で笑いを噛み殺した。噛み殺しきれなかった笑いがとうとう声に漏れる。どうしたのさ、むきになって。別に、むきになってなんかねえよ。照れたように画用紙に目を移すと、いつのまにやら鉛筆は青い絵の具を含ませた絵筆へと持ち替えられていた。着々と画用紙の上は変化を遂げて、既に完成は間近に迫っている。
 そうして。鯨は歌を歌うんだけど。と、そういう切り出しだった。人間と近しい部分が多いのさ。産む子供の数や育て方が。だから一部の人間の目には鯨が賢いように見えるんだろうね。少年は吐き捨てるように、なんだ、と言った。なんだとはなんだと彼女はからかうように眉を上げて見せると闇を吸った瞳はやはり重たげに揺れ動いた。じゃあ人間のご都合主義なのか。そのとおり、君はひとつ賢くなった。片目を瞑ってみせると少年は気持ち悪そうに身を退いた。その姿に一頻り笑って、彼女はふたたび鉛筆を動かし始めた。胸の奥には秘めたものがあった。彼女はその存在に気づいていたけれど、少年に伝えようとは思わなかったのだ。
 昔、人間と鯨は一つの同じ種族だったことを。火を求めた人間は陸を選び、水と風を愛した鯨は海に還った、その話を。
 少年はきっと真摯に耳を傾けてくれるだろうと思うのだけれど、やはりそれは憚られる未来だった。育ちも口も決して良い方ではなく、彼女にはいつも憎まれ口を叩く、けれども本当は彼女の隣に居続けてくれる程には少年は優しかったので、彼は話を聞いて鯨に感情を寄せてしまうだろうし、そうなるともう彼女の出る幕はないだろうと考えたからだった。畢竟彼女は彼が彼女とは真逆の思考を持ってしまうのが恐ろしかったのだろう。少年はその想いに気付かなかった。彼は周りが思うほど子供ではなかったが、自惚れるほどの大人でもなかったのだから。鯨はね、美味しいよ。あっそ。とても、美しいよ。知ってる。短い問答の中に満足を見出した彼女はうふふ、と目を細めていた。しゅっしゅっしゅ。短い摩擦音はリズミカルに鳴る。少年は彼女が絵を描くときにだけ見せる柔らかい瞳と指先がとても好きだった。しかし死んでも言うものかと心には既に誓ってあるので、彼女がその想いを少年から聞くことは決してないのだろう。
「あんたの青い眸は、海の色と同じだな」
 口をついて出た言葉は前々から少年が思い及んでいた事実だった。褒めたつもりも貶したつもりもなかった。事実確認という事実。しかしその言葉を聞いた彼女の双眸から一粒の涙が流れたことは少年には予想の出来ない事柄だった。彼女は、嬉しかったのだ。青い瞳を持つ自身の姿が、海さえ飲み込む闇色の瞳に飲まれてしまわなかったことが。無意識のうちに腕の中に引き入れた少年の頬は赤く染まっていた。
 画用紙には、青い空と海に抱かれるように宙を舞う、黒い鯨の姿が描かれていた。

20120422

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