text | ナノ


 満月が浮かぶ夜空を、大きな鯨が泳いでいた。それを見て、ああ、夢だな、と思う。
 海原だった。美しい藍色に月の光を受けて、揺れる水面が輝いた。遠くに地平線が見える限りはなにもなく、ただただ、広く蒼の平原が広がっている。鯨の泳ぐ空には星ひとつ見えず、丸い月が海を見下ろしているばかりだった。
 私は裸足で、脹脛まで水に浸かり、ぼうっと突っ立っていた。砂の感触が、足の裏を通して伝わってきた。とても浅いところにいるというのに、砂浜が見えない。足元はなにやら小さな小魚のようなものが、水中をゆらりゆらりと泳いでいる。こいつらは、空を泳がないのか。ぼんやりと、そう思った。
 がたん、ごとん。遠くの方で、電車が走る音が聞こえた。駅があるのかもしれない。それとも、線路が。周りには何も見えないのに、音だけがやけにはっきりと聞こえてきた。
ふと、紺色の垂衣の中を何かが横切った。細い線。一つ、また一つと、それは夜空をやんわりとした曲線を描きながら落ちる。水が、揺れた。
 流れ星?
 星は一つもないというのに。流れ星だけが落ちるなんてことが、あるのだろうか。思わず、足を動かしていた。柔らかい砂が、私の足と一緒にゆっくりと跳ねる。
 また、空の一点が光る。今度は一部始終を見逃さないように、しっかりと両目で捕らえた。瞬きすらできなかったその一瞬。流れ星が落ちた先に、何かが、いた。

「あれ? 誰ですか?」

 瞳も、髪も、服も、全てが夜よりも深い、黒の少年。彼はじゃぶじゃぶと水を蹴り上げ近づいてきた私を見て、そう呟いた。その手に、きらきらとした何か石のような物が握られていた。

「気付いたら、ここに。」

 誰、という問いに上手く答えることができなかった私は(まさかいきなり名前を言うわけにもいくまい)、そういう言葉を返した。彼は、そうですか、と返事をして微笑んだ。

「あなたは、何をしてるの?」
「これを拾っているんですよ。」

 手に持っていた石をこちらに見せるようにして、彼は言った。

「この石は流れ星ですよね。」

 私はさきほど見ていた光景を思い出して、確かめるように聞いた。空を見上げると、ちょうど、鯨が私たちの上を通過するところだった。

「そんなようなものです。」
「拾ってどうするの?」

 彼は私の問いに小さく微笑んだ。星のように、幽かな、笑みだった。そうして、手に持った光る石を肩に下げた鞄に入れる。ちらりと見えたその中には、大小さまざまな光る石がたくさん詰まっている。
 また一つ、遠くの方で流れ星が落ちた。

「じゃあ、行きましょうか。」
「え、」

 どこに、という私の言葉は声にならず、空気に溶けた。颯爽と海原を進む少年の姿は、なんだかどこか鯨のようで。慌ててその後を追う私の頭の中で、あの空飛ぶ鯨と兄弟だったりして、と、誰かが言った。

「あの鯨は、月と同じなんです。」

 私の中の声が、まるで聞こえていたかのように、彼は言った。

「満月の日からだんだんと体が小さくなっていくんです。新月になると、消えてしまう。」
「死ぬって、こと?」
「いいえ。また月が出ると現れて、満月までにだんだんと体が大きくなる。その繰り返し。」

 死ぬわけじゃないと聞いてほっとした反面、それは同じ鯨なのだろうか、と声に出さない疑問を浮かべた。新月に鯨が死んで、月が出るとまた新しい鯨が生まれているだけだとしたら、それはとても悲しいことのように思えた。
 時々落ちてくる流れ星を拾い集めながら(とうとう袋に入りきらずに、私も少しだけ手伝うことになった)、しばらく歩いていると、不意に足から伝わっていた感触が変わる。足元を見ると、いつのまにか、柔らかい砂地から、硬い石畳の上を歩いていた。水面の下で揺れる、少しだけごつごつとした石。石と石の間は苔むしていて、その石畳を形成する石の板が正方形だということは、すぐにはわからなかった。
 円形の、小さな広場。周囲は赤レンガの背の高い建物に囲まれていて、上を見上げると、丸く切り取られた空の真ん中に、満月がはまっていた。さっきは海原の向こうの空に見えていた月が、今度は真上にあることに、なぜだか不思議とほっとしていた。
広場の中心には、白い壁の小さな家。高床式で、扉が水の上になるように造られている。
 黒の少年は、すでにその扉の前で私を待っていた。彼の隣には、黒板の置かれたイーゼル。黒板には「Cafe・Piu Dolce」と白いチョークで書かれている。
 久しぶりに感じる、空気と、水のない地面。

「さあ、どうぞ。」
「お邪魔、します。」

 少年が扉を開くと、ドアベルがカラランと響いた。促さるままに、店内に足を踏み入れると、甘い匂いが鼻を掠める。右側にはカウンター席、左側には机が二つに、それに携わる椅子が二脚ずつ。全て木製だ。二つの天窓から降り注ぐ月の光が、カウンターを照らしていた。

「適当に座ってください。」

 なんとなく、カウンター席に座ることにした。少年は、カウンターの中に入ると、袋をその上に置いて、てきぱきとボウルや木ベラを用意していった。ボウルは、普通のものよりも、はるかに大きい。料理でも、するのだろうか。私があまりに不思議そうにしていたのだろう、少年は私に向かって、ちょっと待っててくださいね、と小さく微笑んだ。
 袋の中から先ほどの光る石を全て取り出すと、小さなハンマーで、それを細かく砕き始めた。きいん、きいん。普通の石のそれとは違う、キラキラとした音が、石が砕けていくたびに、家の中に響く。まるで、楽器の演奏を聴いてるようだった。
 元の大きさの四分の一ほどになった石たちを、ざらざらとボウルに入れると、木ベラでぐるぐると掻き混ぜていった。きゃらきゃら、と、また不思議な音が鳴る。

「何か、手伝う?」

 あまりにも手持ち無沙汰で、私はそんなことを言っていた。少年は木ベラを動かす手を止めずに、そうですねえ、と天井を見上げた。満月は、いまだに私たちの、頭の上。
 あ。小さく声が、漏れた。

「パンケーキ、作れますか?」
「パンケーキ?」

 突然聞こえたその単語を、思わず鸚鵡返し。頭の中には、あの狐色をした、丸くてふわふわの食べ物。私は、ホットケーキと呼んでいるけれど。

「何度か、作ったことはあるけど。」
「じゃ、お願いします。」

 何を、とは、聞くまでもなかった。少年はボウルを抱えてカウンターから出ると、私の隣に座る。

「道具と材料は、全部用意してあります。」
「あ、うん。」

 なんだか、普通に頷いていた。
 私は調理場に入って、とりあえず、手を洗った。綺麗な水だった。さっきの、海原のような。手元を照らす光といえば、真上に輝く月だけだというのに、暗すぎず、明るすぎず、不思議な空間が、その場にはできあがっていた。
 用意するものは、ボウル(少年が使っているものよりも小さい)と泡立て器、おたま、フライパン、フライ返し、軽量カップ。ホットケーキミックスは見当たらなかったので、そこから作らなくては。薄力粉、ベーキングパウダー、砂糖、塩。そして卵、牛乳、水。
一通りの道具と材料をそろえて、さっそく調理開始。ボウルの中に、今用意した材料を全て入れて、泡立て器で掻き混ぜる。
 かしゃん、かしゃん、かしゃん。リズム良く。
 きゃらきゃらきゃら。少年のボウルが響く。

「それは何を作ってるの?」
「綺麗なものですよ。」

 答えに、なっているような、なっていないような。たぶん、なっていない。食べ物じゃないのか、と、少しだけ残念がっている自分がいた。
 生地が滑らかになると、少し前に暖め始めていたフライパンの熱を取る。ぷしゅう。白い水蒸気になって、逃げていった。おたまで生地をすくって、なるべくフライパンの真ん中に注ぐように、注意を払う。頃合を見てひっくりかえすと、綺麗な狐色が顔を見せる。真ん丸のホットケーキは、今も空に浮かんでいるであろう、あの満月を連想させた。
 生地を全部使い切って、六枚のホットケーキが完成した。

「ホットケーキ・・・・あ、パンケーキ、できたよ。」
「ありがとうございます。」

 お礼を言う少年の手は、まだ木ベラを回し続けていた。疲れないのだろうか。ただ、さっきとは違うのは、あのきゃらきゃらという音が、聞こえなかったこと。

「外でお月見でもしながら、食べましょうか。」

 ボウルを抱えて、外へ出て行ってしまう少年。六枚のホットケーキを重ねて皿に乗せ、私も後に続いた。
 じゃぼん、と、水の音。どうしてだろう。扉は、水の上にあったはずなのに。
 外へ出ると、赤レンガの壁がなくなっていて、目の前にはあの蒼い草原が広がっていた。流れ星の降る夜空には、黄色い満月と、黒い鯨。

「あ、れ、」

 衝動的に、後ろを振り向いた。
 今までいたはずの、白い家は、あとかたもなく。
 海原が、続く。
 がたん、ごとん。姿の見えない電車が、走っている。

「静かな夜には、甘い物が似合いますね。」

 少年は、星の笑み。

「さあ、どうぞ。」

 再び、促された。彼の手が示すのは、海原にぽつりと置かれた、青いベンチ。鯨が、頭上を通過した。

「あなたがいて助かりました。僕、パンケーキの作り方を、忘れてしまって。」
「クッキーとかでも、良かったんじゃない?」

 「Cafe・Piu Dolce」という看板を思い出しながら(あれが、彼のお店とは限らないけれど)、少年が多少は料理ができる人なのだろうと予想しつつ、そんな風に返した。
 けれど私の言葉に、いいえ、と微笑む彼は、ようやく、木ベラを回す手を止めた。

「蜂蜜には、やっぱりパンケーキが一番ですから。」
「はちみつ?」

 蜂蜜は、持ってきていない。もしかして、と私は少年のボウルを覗き込んだ。砕かれた光る石があったはずのその中には、金色の蜂蜜。綺麗なものですよ。先ほどの少年の言葉が思い出された。
 流れ星からできた、金色の蜂蜜。それを、少年は丁寧にホットケーキへかけていった。 余った分は、どこからか取り出した、数個の瓶の中へ。

「甘そう。」
「とても甘いですよ。」
「パンケーキ、口に合うといいけど。」
「こんなに丸くて狐色のパンケーキが、美味しくないわけありません。」
「なにそれ。」

 くすくすと、含み笑いが漏れた。渡された一枚のパンケーキ。蜂蜜が零れないように、少しだけ持つのに苦労した。

「いただきます。」
「いただきます。」

 口の中で、溶けた。パンケーキは程よくしっとりとした食感があって、蜂蜜の味が、それを包むように広がっていく。一口食べるごとに、ふわりふわりと、体が浮いていくようだった。パンケーキも、いつも食べるそれとは違っていて、とても、美味しくて、不思議な甘み。何も違うことはしていないないのに。
 水が揺れる。どこかで、流れ星が落ちていた。蜂蜜のできる、光る石。

「ここは、どこなんだろう。」

 ぺろりと一枚を食べ終えた私は、やっと、聞き逃していた問いを、少年に投げることができた。

「どこでも、ないんですよ。・・・あぁ、強いていえば。」
「いえば?」

 星のように笑う少年は、手についた蜂蜜をなめて、満月を見上げる。

「世界の隣、でしょうか。」

 ざざん、と、波がなった。

「また、来れるかな。」

 どこまでも続く海原。空飛ぶ黒い鯨。黄色の満月。狐色のパンケーキ。流れ星の蜂蜜。

「ここはいつでも開いています。」

 あなたが願えば、いつでもね。言葉を紡ぐ少年の横顔は、なんだかすこし、やっぱり鯨に似ていて。やっぱり兄弟なんだ、と、誰かが言った。
 がたん、ごとん。電車が走っている。きっとあれに乗って、帰るんだ。駅は、どこにあるんだろう。たくさん歩くんだろうな。

「さあ、月が隠れてしまわないうちに、食べてしまいましょう。」
「うん。」

 とりあえず。

「いただきます。」
「いただきます。」

 パンケーキが残っているうちは、考えなくてもいいかな。なんて。
 蜂蜜がとろける脳で、そんなことを思った。

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