text | ナノ
「音が、聞こえるんだ」
青い海が見える学校の屋上で、そいつはそんなことを呟いた。オレはいつものようにカフェオレを飲んでいて、そいつはいるものようにお茶を飲んでいるところだった。
「音?」
「うん」
フェンスにもたれて座っていた俺は、隣を見上げて聞き返した。返ってきたのは短い答え。安全のためのフェンスに身を預けて、その向こうの海を眺めているだろうそいつの表情は伺えない。
微かな潮の香りが、波の音とともに運ばれてくる。
「どんな?」
「ん?」
「どんな音?」
「水か落ちる音」
"音"と、曖昧な言い方で始めたにも関わらず、想像していたよりも明確な返答をされたオレは、カフェオレを一口、口に含んだ。意味が分からない。
そんなオレの反応と、沈黙に気付いたのか、そいつはゆっくりと話しだした。相変わらずの、波のない口調。
「どこにいても聞こえてくるんだ。同じ音。同じ間隔で。でも、直接耳から入ってきてるわけじゃなくて、耳の奥」
そうして、この辺、と、初めてこちらを向いて、自らの耳の裏、付け根の部分に人差し指をあてる。
「ここで響いてくる。ぽちゃん、ぽちゃん、って。あ、ほら、今も」
ほら、と言われたって、オレには聞こえないのだから分からない。
空を見上げて、ふう、と溜息をつく。風があるようには感じないのに、千切ったような雲がゆるやかに青い空を進んでいく。
耳の奥で音がすると言われて連想するのは"耳鳴り"だけれど、そういうのは大抵キーンとか、劈くような耳障りな音だと聞くし、少なくとも水の落ちる音なんかじゃなかった気がする。
そんなことを考えながら、また、カフェオレを一口。
「いつから聞こえてるんだ?」
「んー・・・いつだろう。でもきっとさ、ずっと聞こえてたんだよ」
僕がそれに気付いただけなんだ。
大真面目な顔でそんなことを言うものだから、笑うことも忘れてしまって。
ザザン、と波がなった。
「満月の夜が一番多いんだ。もうひっきりなし」
「ふうん?」
「今も聞こえるけど、でも聞きたくないときは聞こえない」
ということは、まぁ、あまり日常生活に支障はないわけだ。
そういうと、医者みたいなこと言うなあ、と言われた。そんなものだろう。
ぽちゃん、ぽちゃん。
残念ながらオレには聞こえないその音に身を委ねるように、そいつは目を閉じて座り込む。そうして、ふと、もしかしたら、と呟いた。
「水が落ちる音じゃなくて、何かが水に落ちる音かも」
「何かって、何?」
「さぁ・・・なんだろう」
適当なことを言って、口を閉じた。
耐えかねて、オレが問いかける。
「知りたくないの?」
「別に。・・・知りたい?」
「別に」
どっちもどっち。
ジュー・・・
カフェオレを飲もうとすると、中身がなくなってしまった音がした。会話をしながら飲んでいたせいか、一杯分飲んだ気がしない。そいつもちょうどお茶がなくなったようで、容器を隣に置きながら、ふう、と溜息をついた。
「満月の夜は、ずっと起きてる」
「たくさん聞こえるから?」
「うん」
「聞きたくないときは大丈夫なんだろ」
「聞きたいから起きてるんだよ」
うるさい音じゃない。
そうだろうな、とオレは返した。本心だ。
「聞いてみたい?」
「オレはパス」
「なんで」
「聞こえてきたら絶対聞かない」
「あー」
納得したように頷く。
背中を撫でるように、少し冷たい風が吹いた。潮の香りがまとわりつく。
ガシャン
そいつはおもむろに立ち上がって、背伸びをした。 そうして、
「ま、それだけの話なんだけどさ。」
今までの会話話を締めくくるように、そう言った。
「そか」
オレは短い答えを返す。
浅いような深いような会話は、凪いだ海だ。波の立たない、青い草原。オレとそいつは、いつもいつも、そんな草原に突っ立っている。そいつの耳にはあの音が響いていて、オレの耳には波の音が響いているのだ。
ぽちゃん、ぽちゃん。