novel


▼ 掬い、救う

その日は、ずっと小児科病棟で過ごしていた。集中治療を越えて、漸く一般病棟に降りることのできた、小さな患者と過ごすためだ。児童相談所と病院…主に神宮寺医師と虐待対策委員会との話し合いの中で、児童相談所は、家庭環境の改善を前提に、彼女を家に返すという案を提示した。虐待を受けている児の中には、それでも両親を愛してやまず、両親からの愛を必死に求めている者がある。僕らの患者、未唯も同じだった。また殴られるかもしれなくても、また傷つけられるかもしれなくても、傷つけられるのはいい子に出来なかった私がわるいのだ、と無邪気に責任を全て負い、家に帰る、と床を這いながら泣くのだった。
しかし、神宮寺医師は、頑として首を振らなかった。これが、彼女を保護する最後のチャンスかもしれないのだ。返してしまえば、今度は遺体となって帰ってくるかもしれない。そんなことを許せるものか、というのが、彼の意見だった。僕らも、神宮寺医師に賛成だ。泣いて嫌がる未唯の将来を守るためだなんて、もっともらしい理由をつけて、真っすぐに首を横に振る。

虐待の渦中にいる子供たちは、自らの意思・行動がしばしば保護者に依存的となる。要するに、無意識のうちに顔色を窺い、求められるがままに在ろうと必死に生きているのだ。自分自身の想いを隠し、潰し、いつか表出の仕方も忘れ、傷つき大人になり、ふと気づいたときに、体と心についた傷を漸く認識したときには、もはや誰も彼らを救わない。成人であれば自分に責任を負いなさい、と、投げ出されて初めて、「自身に決定権を託せない」自身を背負うことになるのだ。判断しようとするたびに、親の顔を浮かべては親の望むだろう選択肢を取り続け、いつまでも傀儡からぬけられないまま殻にこもる子供もいれば、抜け出そうともがいた挙句、僕を生み出したはるかのように、いくつもの人格を交代しながら生きながらえ、そのまま大人になる子供もいる。良い子でなければ、と抑圧し続けた心が、いつしか身体を蝕み、身体表現性障害に至ることもある。詐病と間違えられやすく、時に我儘だとすら形容されるそれは、彼らの心が必死に助けを求めている証拠だ。
例え生き延び、身体だけは大人になっても、育つ機会を失くした幼い心を抱いたまま、整然とした大人としての対応を求められる。その苦痛は如何ほどか。

「絶対、返さない。保護入院だ」
「神宮寺、落ち着け」

神宮寺医師の眼光が鋭さを帯びる。海東隊長が諌めるも、彼は首を振る。その意志は固い。

「この子の幸せは、俺たちが決めることではありません。それはもちろんですが、見え透いた虐待死を予見しつつ、彼女の意見に沿うだけなら、それは俺たちの怠慢だと思うんです」

泣き疲れて眠る未唯の姿を窓越しに眺めて、彼は淡々と述べた。彼女の足は今だにギプスで硬く巻かれており、ひとりで歩くことも難しい状態だ。両親のもとに帰ることができるなら、退院することもできるだろうが、この状態でかえすのはあまりにも恐ろしかった。未唯はサンドバッグにされたくて帰りたいと泣いているのではなく、ただ、大好きな母と父に会いたいだけなのだ。
彼女は、信じている。自分が良い子にすれば笑ってもらえると、抱きしめてもらえると、これほど傷つけられてまだ、一点の曇りもなく、信じ抜いている。

「その瞳が痛いんです。私に愛されて当然だと思っている瞳が。気が付くと、みいちゃんは、血を流して倒れています。それが耐えられなくて、殴って、蹴って。…そうしたいわけじゃないのに。心の中で、どうしてこんなことになっているのか、と問うけれど、わからない。あの子が憎くて、ならないんです。笑って私にまとわりついてくる無邪気さが、嫌で仕方がないんです。あの日、私たちは、みいを殺すところでした。ぐったりしたあの子を見て、初めて事態の深刻さに気付き、救急車を呼びました…」

これは、神宮寺医師との面談に同席した看護師が、帰り際に未唯の母親から聞いた言葉だ。無論、未唯はそれを知らない。知る必要がない、と、神宮寺は口を閉ざした。理由もなく、虐待がおこなわれることはない。何らかの理由、背景、それらが虐待を生むのだ。虐待されて育った人間は、再び虐待を繰り返すという話は有名だが、虐待された人間すべてが虐待を行うわけではない。同じように、虐待を受けずに育った人間が虐待をすることなどない、とは言えない。

未唯の母親は、孤立と孤独を背景に、気が付けば虐待に手を染めていたのだった。SOSの出し方を知らずに、独りで耐え抜いた結果が、未唯の大怪我だ。未唯の父親は、未唯に煙草の煙を吹きかけたり、肌に煙草を押しあて泣き声を聞いては腹を抱えて笑っていたという。仕事がうまくいかない腹いせだ、と、後に彼は語った。

「彼女がされた行為を許すなよ」

神宮寺医師が言った、たった一言を胸に、僕は彼女の部屋の扉をノックした。寝ていたはずの彼女はぱちりと目を開け、嬉しそうな顔をして手招きをする。

「おねーちゃん!」
「うん、未唯ちゃん、会いに来たよ」
「げんき。いつおうちにかえれるの?」
「もうちょっとかなあ」

僕が話しかけると怯えて泣くのに、彼女が声をかければこの通り、未唯は満面の笑みを浮かべる。人の心の表情に敏いのは、彼女が生きるためにつけた知恵なのだろう、と僕は思う。何も言わずに部屋に入っても、未唯は僕と彼女を明確に区別することができる。全く同じ体だというのに。

「おねーちゃん、いかないで」

必要以上の力で、スクラブの裾をぐいぐいと引っ張る未唯の腕を撫でると、彼女は漸く笑顔になる。触れられることが好きで、独り占めしたくて、我儘を言いたくて…入院したばかりのころは、能面のような顔をして、されるがままにしていたことを想えば、大きな進歩だ。今後はさらに愛着障害という名のスキンシップが増えるだろう、という想像はたやすい。
けれど、それでいい。吐き出せるようになった未唯は、いま、危害を加えられることのない環境で、泣いたり怒ったりしながら、心を育てている最中なのだ。
胸ポケットで震えたピッチに伸ばそうとした僕の腕をつかんで、未唯はいやいやと首を振るけれど、それでも出ないことには仕方がない。ごめんね、と一言おいて、通話ボタンを押す。相手は仁兎医師だった。

「水谷さんの病状説明をするつもりだから、もし時間あったら来てくださーい」
「いきます!」
「いっちゃいや、やだ!やーーだーーーー!」

いや、と言いながら、未唯はしぶしぶ手を放す。えらいね、また来るね、と未唯の頭を撫でる僕の手は、とても優しい。けれど、今、主導権を握っている<私>の中にある思いは、母性などと言ったあたたかなものではない。庇護欲でもなければ、ただ可愛がっているわけでもない。
彼女は、自分がされたかったことを、しているだけだ。零れるような優しさも、柔らかな声音も、未唯と同じ年頃の彼女が欲しがり、結局手に入れられずにいたものだった。<私>の中の残酷な幼さを、僕は容易に理解できる。それを誰にも知られたくないと願っていることも、できることなら未唯にも気づかれたくはないと震えていることも、全部感じられる。
でも、何も言わない。
今、この身体の主導権を取り戻したところで、僕は彼女に何もしてやれない。その点において、僕は、彼女でしかないのだから。
この身体は<私>のもの。
今は分かたれている僕も、いずれ彼女の心が癒え、僕という存在をなくしても生きられるようになったなら、統合されて消滅する身だ。あくまで教科書的な話だけれど。

相変わらずの様子でアラームが鳴り響いている集中治療室に足を踏み入れた僕を迎えたのは、仁兎先生だった。僕が当直明けで帰った日の午後に、仁兎医師は消化器外科に連絡を入れ、水谷さんの緊急手術が行われたと聞いた。その後、水谷さんのバイタルは落ち着いているとカルテに記されていることまでは、確認してある。

「後ろで女の子の声が聞こえてたけど、大丈夫だった?」
「大丈夫です。遅くなりました」
「ご家族、今ちょっと席を外しているんだ。手続きをしに行っているみたい。だから、そのうちに説明をしちゃうね。先生はここに座って」

仁兎医師はパソコンの前に座り、隣の席に僕を座らせた。骨ばった細い指がキーボードの上をすべる。この手で数えきれないほどの患者を救ってきた彼を、僕は尊敬してやまない。画面に映し出されたのは、画像の読影レポートだ。まだ顔を見たことはないものの、この病院には神の目を持つ医師がいる、と、勤務医の間では有名だ。神の目、もとい放射線診断科の柏医師のサインが文末に記載されたその書面には、思いもよらぬ診断結果が示されていた。

「腹腔内リンパ管腫症、って知ってる?」
「…リンパ管の発生異常が原因で起こる、…ええと、ですが、それは小児期に報告されるものだった、と…」

しどろもどろになってこたえる彼女を支えるだけの知識は、僕にはない。同じ頭を使っていても、全ての引き出しを開けられるとは限らない。不安に胸をばくばくと鳴らす彼女に、仁兎医師は笑ってうなずいた。

「すごい、知ってたんだ。僕は知らなかったよ。…でね、書いてあるでしょ、Blue-Rubber-Bleb Nevus症候群の鑑別を要する、って。調べてみたら、家族性のものがあるらしくて。皮膚病変はないから、あんまり疑ってはいないんだけれど…水谷さん、昔から貧血はあるって言ってたから、精査だけはしておこうかと思ったんだ。さて、ここで問題。この症候群、消化管と皮膚に静脈奇形を起こす病気なんだって。…じゃあ、何の検査しよう?」
「消化管出血からの貧血は疑わしいので、上下部内視鏡検査…」
「採血は?」

仁兎先生は尚も続ける。彼女は頭をひねって考えるけれど、この答えは僕が知っている。

「静脈奇形があると、静脈内での血流うっ滞が起こります。血液が固まりやすくなるので…凝固系を含めた採血も必要だと考えます」

一瞬だけ彼女とすりかわった僕には気づかないまま、彼は楽しそうに手を鳴らす。

「そう!すごいね、蓮城先生。気付けるのがいいね!…そういう検査をしようかな、っていう話をするんだ、今から。もし万が一この症候群だった場合、遺伝カウンセリングが必要になるかもしれないから、それも頭に置いておくんだよ」

遺伝カウンセリング専門の職業があってね、と彼が話し出したところで、水谷看護師の横たわっているベッドに人影が集まりだした。どうやら家族が戻ってきたらしい。仁兎医師は言葉を切って席を立つ。僕も同じように立ち上がり、部屋の隅に立てかけられているパイプ椅子を2つ抱えて彼の後ろについてゆく。

数日前の夜、真っ青な顔をしていた彼女が、此方を向いた。
視線がかち合う。
間に合わなかった。彼女を助けられなかった。みるみる冷え切ってゆく心の重たさに、目線を落としたその瞬間。

「たすけてくれてありがとう、蓮城先生」
「あ、え、」
「あの時は、驚かせてごめんなさい。気づいてくれて、ありがとうございました」

仁兎医師が眦を垂らして唇を開く。

「僕たちの勝ちだ」

水谷さんと掌をぱちん、と合わせた後に、僕を手招く仁兎医師を見て、彼女はもう一度、手をこちらに向けた。おそるおそる合わせた手はあまりにも温かくて、僕の目からは勝手に涙が溢れだす。僕ではない、半身の彼女が泣いているのだ。泣き出した僕を見て、水谷さんの家族も目を赤くする。当の水谷さんも、笑いながら泣いていた。

「怖がらせてしまってごめんね、先生、ありがとうね」
「まだ終わったわけじゃないんだから、全部出さずにとっておいてよ、涙」
「ああ、そうだそうだ、ごめんね、仁兎先生。蓮城先生が泣いてるから、つい」

仁兎先生の掌が頭にのせられる。先程教えてもらったばかりの内容をかみ砕き、水谷さんたちに伝えている先生の声を聴きながら、僕らはあらためて、初期対応の重要性を噛みしめたのだった。


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