novel


▼ 目に見えないものを、忘れるな

ねえ、あなたはどうして右の頬に傷を作っているの。私は左が痛いのに。

黒と赤、青に黄色の痣でいっぱいの腕を掲げ、割れた鏡に手を伸ばした。破片で切れた指先から垂れる赤、が、鏡の傷を赤く彩ってゆく。そこに映された自分が笑う。同じ姿をしていながら、違う声で、違う表情で、笑う。



「僕だって、鏡の中にはいってしまえば、右側が痛くなると思うよ」



零れた声が、私の耳に届く。笑っているのは、私だった。楽しそうに、自虐的に、被虐的に、倒錯的に、自嘲していた。いつかはこんな日が来ると予測していなかったわけではない。でも、この日が来ることを、私は恐れていた。自分の弱さの権化たる彼に、体を奪われるだなんて、本当は考えたくなかった。

彼は私自身だ。ひどくあさましいことに、私が、私を守るために生み出した分身だ。彼の存在を認めることは、己の甘えに相対することに他ならない。既に私のコントロールを受け付けなくなった体の中で、私はひとり、嘆息する。身体は勝手に、風呂場を目指す。今さらこの身体を見つめなおして何ができるのか、と思う私の体に、彼は愛おしそうに触れてみせた。



「ああ、君の…僕の身体は美しいな。こんな色は似合わないね」



自分の身体だから、と大切そうに扱う彼と、自分の身体なんて、と傷ついてばかりの私のとは、とても合いそうにない。こんなものを生み出してしまうほどに、どこかで救いを求めていた自分があさましい。戦慄する私を顧みることなく、彼はてきぱきと治療をすすめてゆく。傷を洗い、出血をティッシュ越しに押さえて止めていた。そんな風に触れるのはやめて、と振り払おうとしたけれど、私の腕は哀しいくらいに言うことを聞かないままだった。

これが自分が作り出したあまえ、ゆめであるのなら、自分に都合良く動かなければおかしい、と思う私の心を感じ取ったのか、彼は一体どうすれば出せるのかと思うほど低い声を震わせて笑った。



「僕は君だけど、君そのものではないからね。僕にとって都合よく動いているのだから、間違ってはいないのさ」



私にはわからない。どうして、私の体を大切に扱うことが、彼にとって都合の良いことなのかがわからない。痛いのは私、辛いのは私、哀しいのは私。彼が不利益を被るわけではない。それとも、私自身が心の奥底で、本当は自分の体を大切にしたいと、傷つきたくないと、願っているとでもいうのだろうか。それを認める強さを持てない私の代わりに、彼は私を大切にしようとするのだろうか。ばかげている。間違っている。自分の傷を自分で舐めて癒すような、そんな真似。



「幾らでも思えばいいよ、はるか。思うだけなら、ね。でも、僕はまだ生きていたいから、生きる為にはなんでもするよ。都合のいいことをたくさん、ね」



あまりにもひどい、と泣くことすら、許されなかった。鏡の中の彼は、何も言わずに此方を見続けている。



鏡を割った。

その破片で、首筋に走る動脈の一筋でも断ってしまえば、それがすべての幸福につながるような気がした。

それだけが、私の選べる最適解であるような気がしていた。鏡をたたき割り、幾条もの切創に飾られた手で、比較的大きな破片を拾い上げた。答えをだそうとして鏡に向き合い、ことに及ぼうとした瞬間、それを止めたのが、いま目の前にいるーーー彼だった。



「存外深いことは知っているだろう。…今の僕じゃあそこまではとてもじゃないけど届かないよ。別に死にたくないからね」



何度も解剖図を確認した。深いことも理解した。幾層もの筋肉をかき分け、突き刺すためのシミュレーションを散々重ねてきた私を、彼は軽々と否定してみせた。あなたが生きていていい理由はなに。どうして自分が生きてゆくことを許せるの。打ち付けるように、問いかけた。返ってきた答えは、度し難い。



「どうして、理由がないと生きられないだなんて思いこんでしまったんだろうね。環境のせいにしておく?君の嫌いな、責任転嫁になるけれど」



絶対にいやだ、と、はねのけて、私は気付く。そうだ。責任はいつだって私になければ。誰かのナニカのせいにしたって、始まらない。



「はるかのせいにしたところで、何もかわらないけどね」



絶望的な毎日だった。どうしてみんな、生きていられるのかわからなかった。止まることができないまま、死の杖で先を探りながら生きてきた。まるでろう人形のように、青白い顔をして。死ぬことが怖いどころか、愛おしくてならなかった。自然な終焉は、いつ、訪れるのか。

ぼんやりとかすんだ視界に、誰かが映る。

スクラブを着た、誰かだ。こちらを見ている。口が動いた。

今の私は、研修医。人を助けることができる。助けることができるから、生きていられる。生きていても、許される。

これは、私の過去、違う、これは夢―――







「はるき先生。…今は、そうだよね」

「…神宮寺先生?」

「そう。神宮寺結生。隊長から話は聞いていたんだけれど、君たちの解離がどの程度かはわからなかった。一体、どこまでつながっているんだ」



マウスを転がし画像を送りながら、神宮寺先生は彼の顔も見ずに、問いかける。



「全部、ですよ。今もはるかは聞いてます、僕の裏で」

「そう。なら記憶の共有に問題はないね」

「ええ」



嘘だ。たまに彼と完全に切れることを、私は知っている。私が酷く非難を受けているときなんて、何を言われたか教えてなどくれないくせに。

―ばか、はるか。診療上は何も問題ないんだからいいんだよ。

彼は口にせず、私に語り掛けた。それはそうだが、そういうことでなく---でも、今の状況では、彼の言うことの方が正しいと、私にも理解できた。

いつだって、彼は私よりも上手なのだ。



「君たちは、担当医としてこの子を見る他、やるべきことがあるね」

「児童相談所との懸け橋…いや、違う。あなたはこう言いたいんだ」

「そう。"君たちは彼女と秘密を共有できる"と、ね」

「…そんな風に言うなんて。先生、」



彼は神宮寺先生を強く見据えた。その視線をなんなくいなし、先生はオーダーを立てながら、ただ、口元を引き上げた。



虐待には、目に見えるものと見えないものがある。見えるものは、少女の受けた身体的な虐待だ。命の危険をはらみ、時に救急外来で露わになる。

そのほかにも、2つの虐待が、この世にはある。うち1つである、精神的な虐待は、被虐児の自殺、或いは他者への他害という形で発露する。

そして、最後の一つ、ネグレクト。誰にも見つかることなく、家宅捜索の結果、衰弱しきって、または間に合わず遺体として発見される。身なりの不潔さからいじめの対象とされることも多く、被虐児を攻撃するのは、家族に限らない。

ひとりが受ける虐待は、ひとつとは限らない。今、必死に生きようとしている彼女は、どれだけを背負っているのだろう。

酷薄なことを言えば、彼女は見つかっただけ、まだましだったのかもしれなかった。



今この瞬間も、誰かは殴られ蹴られ、誰かは家の外に放り出されて扉を泣きながらたたき、誰かはひとりぼっちで飢えた腹を抱えながら、ごみに囲まれ、数日帰ってこない親を待っている。



【秘密を共有できる】。

彼は確かにそう言った。虐待を、秘密とたとえてみせた。不適切なほどの思いやりや心配を打ち捨て、真っすぐな立場で、私たちに視線を合わせて、宣った。一歩も退くことなく。彼が言葉を失くしたのも、当然だった。



「先生も、秘密を持っているんですか」

「誰にでもあるものだよ。大小問わず」

「……」

「見えない恐ろしさ、を、感じたかい」

「…ええ」

「俺たちは体だけ治せばいいわけじゃない。ちゃんと心まで救って初めて治るんだ。…難しいことだけれど、それができないと、救えない命って言うのは多い」



神宮寺先生は、そこで漸く此方を向いた。



「この子は明らかな虐待を受けた。じゃあ、虐待を受けていない人間はみんな恵まれていると、言える?」

「いえません」



間髪入れずに、彼が言う。



「そう。言えないよ。虐待がなくても、誰にでも弱さがある。その弱さを許せない他者や組織や社会がある。…弱さを許容しないこと、望む形に合わせようとすること。…それは、虐待ではなくても、苦痛を生む。精神疾患を生み出す。…はるき先生。はるか先生。今後外来でどんなことがあっても、絶対に、Psycho,なんて区別をしてはいけない。そうやって、区分けされる辛さ、少なくとも君たちは知っていると思うから」

「はい」

「いい返事だ」



先生の視線を追うように、彼は時計を見上げた。いつの間にか、日付が変わろうとしている。神宮寺先生も私も夜勤の当番ではなかったけれど、重症外傷の管理を目的に、なんとなくここまで残っていた。



「明日、なんかある?」

「当直です」

「直ぐ帰ってすぐ寝ろ」

「えっ」



病院にこもりきりの神宮寺先生は、私に視線を寄越した。

そんなことはできない、と、反射的に首を振った彼に、先生は尚も言葉を重ねた。



「俺を信じらんないって言うなら残れ」

「帰ります。おつかれさまです」

「おつかれ。明日また再評価、な」



その言葉を聞いてから、僕は彼女に体を明け渡した。僕たちの入れ替わりに、神宮寺医師が気づいたかどうかまでは、僕にはわからなかった。


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