novel


▼ 「好きに救ってみせろ」

コールは止まらない。
目の前で命を失くした5分後に救急車が来るなんて、日常茶飯事だ。嘆く時間も許されない、日々。
上手に嘆くことができないことも、PTSDの症状の一つだと、海東隊長がぽつりとつぶやいたことがある。
だが、救急外来の扉をがらりと開けて、姿をあらわしたこの男性は、きっと、生涯慣れることなどないはずだ。何度だって、一人で泣くに違いない。
さて、彼の前でぼろを出してはならない、と即座に彼女へとこの身体を明け渡した。少女の血の匂いは、未だ鼻の奥に濃くこびりついている。

「はるか先生。お疲れ様。間に合わなくてごめんね」
「神宮寺先生、お疲れ様です。…先生はどうしてここに」
「…隊長は、見送るのと、警察の聴取があるから。ファーストタッチは任せる。困ったら俺に聞いて」

白衣の裾を翻し、神宮寺医師は衝立の向こうに消えて行った。患者から慕われ、看護師からは愛され、仲間からは一目置かれる彼は、僕ら研修医の間でも人気が高い。朝早くから机には荷物が置いてあり、当直中、深夜にも関わらず突如外来に降臨する姿は、いっそ神々しいくらいだ。彼がいつ寝ているのか、知っている者はすくなくともこの病院にはいないと思う。
彼の持つ患者は、救急科なだけあって重症の患者ばかりだ。全身臓器の障害を伴う敗血症性ショック、高エネルギー外傷、重症熱傷、CPA蘇生後…その代わり、社会的入院はあまり持っていない。その理由を、彼の上司にあたる隊長に聞いてみたところ、隊長は笑って答えた。

「ああ、神宮寺に任せると転院が進まないんだわ」
「それはどういう…」
「みんな彼奴にずっと診ていてほしいって言うようになって収集つかない」
「…わかる、としか言いようのない…」
「ここ、一応急性期病院だからさ。転院調整は必要だし、俺がやることにしたの」

しかし、重症患者を持つということは、24時間緊張し続けることだ。少なくとも担当医制を採用しているこの国では、或いはこの病院では、そういうことになる。そんなわけで、神宮寺医師はほぼ病院に住み込んでいるような状況であった。今だって。彼のピッチは鳴り続けている。

「はい、神宮寺です…ん?佐藤さん?…それなら予定通り3ml/hから2ml/hに下げてください。血圧に気を付けて。Weaningは…うん、また上で決めましょう。それと、部屋を確保しておいてください。これから来る4歳女児…もしかしたら特室で保護した方が良いかもしれませんから。よろしくお願いします」

ぴっ。今、彼は何と言ったか。眩暈がしそうな僕をしり目に、彼女はつとめて冷静に問いかけた。

「虐待なんですか?」

特室を使う、ということは、そういうことだ。重症であることは既に救急隊から知らされていたものの、隔離を必要とするような感染症などについての情報はひとつも入ってきていない。それなのに、特室を使う理由はそうない。感染症から他の患者を護るためでなく、静かに看取るためでもない。
運ばれてくる患者自身を護るためだというのなら、その理由は一つしか考えられなかった。

「…4歳の子が、階段から転落して、頭を打ち、ぐったりしていた。…そこまでは、あり得る話だね」
「…はい」
「でも、それだけでどうして背中に大きく火傷を負うだろう?」
「………」
「まあ、見てみないとわからないんだけれど。…両親の対応は俺がするから、二人は彼女をよろしく」

神宮寺医師の言葉に被せるよう、救急車の音が響いた。
代わろうか?
問いかけるも、彼女から返事は返ってこない。細かく震えている体に、神宮寺医師が気付いている様子はなかった。そのまま様子を見て、どうにもならなかったら代わろうと決め、僕は傍観者に徹することにした。僕の可愛いアリス、一体どう助けるつもりだい。

「ああ、病院についた!みいちゃん、病院についたぞ!がんばれみい!大丈夫だからな!先生、よろしくお願いします!」
「みいちゃん、みいちゃんごめんね、私が目を離したりなんかしたからあああ」
「ご家族の方は、此方にどうぞ。ゆっくり話を聞かせてください」
「だめだ!みいを一人にするわけには!」
「みいちゃん、やだあ、みいちゃんごめんね」

両親は、女児の乗せられたストレッチャーに覆いかぶさるようにして泣いていた。しかし、モニター上の酸素飽和度は緩やかに低下している。血圧も低く、心拍は上がり始めていた。ショックに移行しかけている。状態は、芳しくない。

「急いで処置を…」

いいかけた僕の目を、きっと見つめた女性が吼えた。

「だめ!みいちゃんの体を見せたくない!そんな、男の先生に!」

一瞬ぽかんとした彼女の中で、僕は笑う。確かに僕は男だけれど、彼女は違う。れっきとした女だ。元々は彼女が一人で使っていたこの身体の性も女。
ただ、この身体の身長は高く、痩せているのも災いして、女性らしい丸みはひとつとして感じられない。おまけに髪も短いとくれば、男と見間違えることもあるだろう。事実、僕が体を借りているときは大概男と間違われる。

「…私、女です。大丈夫ですよ、」
「え…」
「…彼女は優秀な医師ですよ。だから、安心して。さあ、早く。一刻も早く治療をして、元気におうちに帰りましょう」

何か言いたげな両親を、神宮寺医師はてきぱきと降ろしてゆく。ようやく拘束の解けたストレッチャーを引き下ろし、診察室の中へと運び込んだ僕は、その体の凄惨さに息を飲んだ。彼女は平然としているようだったが、これは、明らかな虐待であった。血友病でも全身に痣ができることはあり、時に虐待を疑われることがあると聞く。けれど、その場合、通常は水玉模様の火傷を伴うことなどない。

「みいちゃん、わかるかなー」
「……うー………」

か細いうめき声を返す女児の瞼は青く膨れ上がって、微かに震えるばかり。唇からは血を流していた。右の額には大きなこぶができており、紫に染まっている。やせ細った小さな体は、到底4歳の体とは思えなかった。2歳にも満たない子供だって、こんなに小さくはない。心電図モニターをつけなおそうと服をめくると、其処には新旧まちまちの火傷、そしてやはり痣があった。

「酸素量2L上げます。口腔内に煤付着なし、顔面に火傷なし。呼吸音は正常。狭窄音なし…意識は微妙。ルート確保、採血全部、それからCT行きましょう」

てきぱきとオーダーを組み立てながら彼女は振り向くが、神宮寺医師の姿はない。

「いま虐待対策委員会に連絡しました、先生。すぐに小児科の医師が駆けつけると思います」

そういったのは、救急外来についていた看護師だった。ICUの看護師の中でも経験の多い者が集結する、この救急外来では、僕たちよりもずっと病院のシステムに精通している彼女たちが輝いている。

「みぃちゃん、ちっくんするねー」

看護師が針を刺しても、彼女はぴくりとも動かない。幸い一度で確保された点滴ルート内に、バッグから勢いよく液体が流れ出す。採れたての血液をシューターに突っ込むのも看護師に任せ、彼女は的確に所見を取ってゆく。虐待の疑いがある、傾眠傾向である、単純CTを撮ってはいけない理由はない、ともう一度確認する。

「CT準備できました。ご家族の同意は?」
「…っ、」

彼女は唇を噛みしめた。虐待であれば、家族から同意を得るのは困難だ。画像検査は何よりも素直に、その子供の体に起こっていることを映し出す。虐待の証拠も含めて全て。

がらり、と扉が空き、神宮寺が戻ってくる。今入ってきたばかりの戸をぴしゃん、と閉じて見せた姿に、生唾を飲み込んだ。
唇が、赤い。口紅を塗ったわけでもないのに、赤かった。この人は、何度唇を噛んで耐えたのか、と、彼女も僕も、背を冷たくさせた。

「いいか、覚えておけよ。…こういうときに許可なんていらねえ。んなもん取れると思うな。迷わず撮れ。…裏口から運べ!今すぐ!全身のXpも追加!」

先陣を切った神宮寺が、点滴棒をストレッチャーに差し替え、ストッパーを外して動かしてゆく。彼に倣った看護師に続き、彼女も飛び出してゆく。

「おいアリス!技師に伝えて、鎮静も何もいらない、CTが先!」
「わかりました!」

彼女はアリス。
僕らはアリス。
その呼称を使うのは、切り替わった神宮寺先生と、一握りの仲間たち。

「お願いします、救急外来です!」
「入って!」
「お前ら何勝手なことしてるんだ!みぃに何をするつもりだ、人殺し!」
「みぃちゃんに手を出さないで、やめてえ、」

待合は地獄絵図だった。他の患者たちも何が起こっているのか、と、遠巻きに此方を眺めている。

「アリス、行け。終わったらそのままICUに転入だ」
「はい!」

神宮寺は白衣を脱いで、それを僕の肩にかけた。

「汚れないように。守っといて」

そして、怒り叫ぶ家族の元に、歩いて行った。
ストレッチャーからCTにうつし、頭部、そして胸腹部の写真をまず移す。高速回転するコイルの音が響く中、女児は矢張りぴくりともしない。眠っているようだった。パソコンの画面に、撮りたての画像がコマ送りで映し出されてゆく。彼女が口を開いた。

「右硬膜下血腫あり、外傷性くも膜下出血は指摘できない、右眼窩底骨折あり、肺野明らかな所見なし、左第6肋骨に骨折線あり、心タンポナーデなし、脾損傷あり、少量の腹水貯留あり、椎体骨折あり、骨盤骨折なし…」
「単純撮ります」
「お願いします」

黒いフィルムに映し出された真白い骨の様子は、悲惨なものだった。左の大腿骨は真ん中でぼっきりと折れている。右の上腕骨も折れている。どちらも、ねじ曲がったような、無理やり割ったかのような折れ方をしていた。

「陳旧性の骨折が今見るだけでも左頸骨、右橈骨遠位端、同尺骨遠位端に。…神宮寺先生の読み通り、か」

ばきん、と折れかけた私を引きずり戻し、即座に彼は前に出た。子供の頬を優しく撫でると、子供は僅かに目を開けた。

「いたあい、……」
「いたいなあ、これじゃあ、痛いよなあ…」
「あーん………うう…」
「意識若干改善傾向。ストレッチャーにうつしてすぐICUに」

その瞬間、やっと神宮寺医師が現れる。髪もスクラブもびしょびしょに濡れている。しかし、彼はそれも気にせず、吼えた。

「今すぐ行くぞ!」

ちらり、廊下に視線をやった彼の視界で、家族の姿を探す。神宮寺医師が必死に向き合ったからだろうか、両親は二人で泣いていた。母親の手には、空になったペットボトル。

「現時点で見つかってるのは?」
「脾損傷及び腹腔内出血、右硬膜下血腫、右眼窩底骨折。椎体骨折および左大腿骨、右上腕骨の骨折も認めます」
「治療方針は」
「脾損傷に関しては現時点ではResponder、保存的加療。右硬膜下血腫に対しては開頭血種除去」
「数時間後のフォローも入れろよ」
「はい!」
「上がったら俺と画像チェック。絶対生かして返すぞ。お前担当医にいれたから…好きに、救ってみせろ」

お前のことも救えるだろう、と、彼は此方を見据えた。彼を通して、私まで届くくらいに、真っすぐな目で。
神宮寺先生の目の前で、彼は笑った。楽しそうに、嬉しそうに笑って、うとうとと眠る傷だらけの天使に触れた。


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