prologue


 しばらくそちらを向いていた天使くんだったけど、不意に私を見て、厳しい口調でこう尋ねた。

「さっきアイツに舐められた場所、見せて」

 有無を言わせないその言葉に気圧されて、私は左の手のひらを差し出した。
 そこは既に乾いている。天使くんはその左手首を掴み、じっと、穴が開くんじゃないかって思うほど手のひらを眺めてから、私が立つのに手を貸してくれた。

「一応、洗っておいたほうがいいですね」
「そんなひどい傷じゃないから大丈夫だよ」
「なつきさんは、破傷風とか、知らないんですか?」

 天使くんは心配性みたいだった。
 しぶしぶ、商店街に戻って適当な店のトイレを借りると、文句を言えないほど綺麗に洗っておいた。

 外で私を待ってくれていた天使くんと合流する。

「他に、この街で案内してほしいところってある?」
「今日のところはこれくらいでいいです。夕飯の買い出しでもして帰りましょう」
「えっ、作ってくれるって本当だったの?」
「オレは嘘が吐けないんですよ」

 ふわあっと、それはもう穏やかに爽やかに、ジャケットに生えてる羽より柔らかな、今日一番にランクインするくらいの笑顔で、彼は私の左手を引いた。
 かわいいとは言っても、男の子だもんね。手は結構頼りがいがあるかも。ふふふと思う。

 それにしても、さっきの男の人……かっこよかったな。黒で統一されたあの服装とか、ポリシーみたいなものを感じた。
 いきなり舐められたときは何事かと思ったけど、そんな嫌じゃなかったし。ていうか、別に、あのままでも私は……。

 脳の芯がぼんやりしてくる。痺れる、って言うのだろうか。でも、心地良い。どきどきする。あの男の人の背中を思い出す。ああ、何だか胸が苦しい。
 理由なんか、全然、思い付かないよ。だってこんなふうになったのは初めてのことで、それで。

 目に入ったのは、繋がれた手。強い力。
 足元がおぼつかなくなってきた私には、その手が何を意味しているのかはもちろんのこと、誰がそうしてくれているのかさえ、分からなくなっていた。

 ただただ満ち足りて、体は軽くって、でもたまに切なくなったりして。
 それが巡り巡ると、きっと何か良いことが起こるはず! なんてね、根拠はないけど自信を持って言える状態になったりした。


 なつきさん──、

 声なんて聞こえない。
 あの、真っ黒な彼の声だけが聞こえればいい。

 なつきさん──、あいつのことを考えちゃ──、

 ダメだ──。


 意識が、途切れた。



 つづく

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