彼は今日も笑っていた。どうしてそんなふうに笑えるのかわからない私は、それがとても痛ましいものに思えて、今日も彼を引き止める。 土曜日の昼下がり、あたたかな日差しの射し込む私の部屋。「いってくるね」と言って私の返事を待っていた彼の、白い服の裾を掴んだ。決して強くはない力だ。払おうと思えば簡単にそうできるくらいの。 それでも彼は動きを止めていた。急がないと大変なことになるって、いつも険しい顔をしているくせに。 一瞬だけ見張られていた目。それがすぐに元の穏やかなものへと戻ってしまったのが、面白くなかった。そのブルーグレイの瞳はいつだって優しいから、見透かされているようで腹が立つ。 白い髪の毛が光に透けるようにふわりと輝いていた。それがまぶしかったから、私は彼から目を逸らす。それをどう理解したのか、彼はそっと私の頭をなでてきた。ぽんぽんと、軽く、慈しむように。 「大丈夫だよ。すぐに帰ってくるから」 添えられた言葉に、なんてとんちんかんなことを言うんだろうこの人は、と思ってしまった。まるでわかっていない、うわべだけで何を言うんだ、と。 だから私は返事をしないし、彼の服を掴む手も離さない。小馬鹿にしたはずのその一言でどれだけ心が落ち着いてしまっていたとしても、それが事実だとわかっていても、それでも私は黙って彼を引き止め続ける。 「そうだね。帰ってきたら一緒にたくさんお昼寝をしようか。約束だ」 私の頭から手を離して、なだめるような声。彼がどんな顔をしているのかなんて見なくてもわかった。いつものように笑っているんだ。うなずいてしまいそうになるから、そういうのはやめてほしい。せめて困った顔でもしていてくれればよかったのに。 私は精一杯、意地を張っていた。なぜだか泣きそうになりながら、頑なに動かない。 ここで彼を行かせてしまえば、私が悲しいから。彼はとっても強いから、ここから出ていっても、どんなものと戦っても、必ずここに帰ってくるだろう。服をぼろぼろにして、疲れ切った風貌で。毎日、毎日。うれしそうに、笑いながら。 それに耐えられないのは私一人だけだ。彼は心の底から笑っているというのに、一緒に笑えないのは私のほうだけだ。彼にとってはしても意味のない手当てをして、あたたかいご飯を食べさせて、ふかふかのお布団を用意して、満足しているのは私だけ。彼の笑顔をまっすぐに見たくてそんなことをしている、私だけなんだ。 彼はそんなことをしなくても、笑っているのに。それが信じられないのは、私のわがままだって、わかっている。 「……約束なんて、しなくていいよ」 それが悲しくて仕方がないから、低い声で払いのけた。服を掴む手に力をこめる。 約束なんてしても、しなくても、彼は確かにここに帰ってきて、私と一緒に眠ってくれるのだろう。だから、そんなものはいらない。 私は彼との間にある絶対的な壁を前に、ついに泣き出してしまった。彼が私に笑顔でいてほしいと思っていることを知りながら、ぽろぽろぽろぽろ、涙をこぼす。 どうしたって、私一人が悲しい。指先の力を抜いて、口を開く。 「いってらっしゃい」 吐き捨てるようにそう言った。どうにか震えはしなかったけれど、その代わりに、思ったよりも冷たい声が出た。 言葉を受けた彼はすぐさま私に背を向けて、窓に向かう。彼は今から戦いに行くのだ。それはとても大切な戦いだ。使命といってもいい。彼が行く先で戦うことは、彼の生きている意味だから。 私も彼に背を向ける。 どうしてああも律儀なんだろう。私がいつまでも服を掴んでいて、いってらっしゃいと言わなかったなら、彼はきっとここから出ていかなかったに違いない。どうして、大切な仕事のはずなのに、私に許可なんか求めるのだろうか。 音もなく出ていったであろう彼の、小さな後ろ姿くらいは見送ろうかと思って、振り向いた。 「え」 「ねえ」 私が驚いたのと同時に、まだそこにいた彼から声を掛けられる。 「君は僕がここにいたほうがうれしいのかな?そうしたら、笑ってくれる?悲しくならない?」 「え……」 どうしてまだここにいるんだと思った。早く、早く行きなよと思う。彼には目的があるのだから。 「あの……」 「僕、人の気持ちって全然わからなくて。寂しいのかなって、思ったんだけど。違っていたら、ごめんね」 「そういうのじゃ、ないです」 戸惑いながらもはっきりと言い切った。彼はにこにこしたまま頭の後ろをかいている。 「いってください。私、あなたのせいで泣いてるわけじゃありませんから」 「そうなの?」 「そうです。自惚れないでください。さっさといってください」 「そうなの。じゃあ、いってくるね」 向けられた笑顔にうなずき返すと、彼は窓枠に手を掛けて、しゅるりと空へ飛び立った。 実にあっさりとしたものだ。彼は私を疑うということをしない。私の言葉はすべて本当だと思っている。そのうち誰か、悪い人にでも騙されてしまいそうだ。ちょっと心配だ。 ……でも。彼はきっと、言葉以外のものから私の気持ちを受け取ることができないのだろうということを、私はなんとなく知っている。絶対的な壁は壊せない。壊せない、けれど。だから? 彼は私と違った。そんなことを考えると、情けなくて、もっともっと泣けてくる。彼の存在はずるい。本当に、ずるすぎる。 絶対的な壁から伝わってくる体温が、向こう側にいる彼から離れようとする私を引き留めて、どうしようもなく悲しい。 そうして少女は眠れない top |