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寂しがる


 至極当然のようにキスをした。
 そんなあたしを突き放すことも、受け入れることもせず、男はただそこにいた。
 部屋に一つきりのベッドの上、シーツを抱えたあたしは、まるで馬鹿みたいに毎日毎日キスをしている。暇なときは男の様子をうかがって、隙ができたら何回でもそうした。男はたまに困ったような表情を浮かべていた気もするけど、あたしが触れれば男にも触れてもらえるということを学んだ。
 光に満ちたこの「病院」で、男は「お医者さん」、あたしは「患者さん」だった。「お医者さん」であるところの男は「患者さん」であるところのあたしの「病気」を治そうとしている。今はその過程なのだと、いつかの日に言っていた。
 あの女はたびたびこの「病院」を訪れて、食材の詰まった袋を置いていった。来るたび、あたしと話がしたいと男に頼んでは、突っぱねられている。あの日にすべて流れてしまって、いらないものを気化したあたしには、話をする理由も内容もないのだけれども。
 あたしが持っているのは、荒い息であたしを助けた男、ただ一人だ。
 今朝もいつものように何回かキスをすると、あたしは男から離れた。それまでベッドのふちに座っておとなしくしていた男は、ゆらりと立ち上がり、柔和に微笑む。黒い瞳は今日も優しげに揺れていた。
「ご飯を作ってくるね」
 じっと見つめていると、ははっと声を出して笑われた。痩けた頬にうっすらできたえくぼがおかしくて、あたしも笑ってみた。
「君にはこの療法がいちばん効くのかもしれないね」
 そうして返された初めてのキスはやさしかった。

 男は必要最低限しか外出しなかった。六時に起きて、朝食を作り、問診をし、洗濯機を回し、掃除をし、昼食を作り、洗濯物を干し、その日の診察をする。時々治療を試みる。夕食と翌日の食事の買い出しに行く。洗濯物を取り込み、夕食を作り、書きためた一日分のカルテを見直し、あたしにキスをされて眠る。男の一日はこんなふうだった。
 ベッド以外何もない部屋で、あたしたちは二人きりだった。キスをして、キスをして、それが生命活動の要だとでも言うようにキスをした。気化して失った水分を補うように、何度でも唇を重ねた。そのたびに男の唇はかさつき、荒れていった。
 時間の感覚などとうの昔に麻痺していたように思うけれど、二週間ほど過ぎた頃に、変化があった。いつもの一日をこなすべく、昨日と同じ歩幅と歩数で部屋の中を動き回っていた男が、ふと、ベッドの上でシーツを抱えていたあたしを見たのだ。昼食後の診察だろうかと男を見上げて、固まる。
 いつもと違う方向に爪先を向け、あたしの元へやってくると、細い指を伸ばした。
「随分良くなったね」
 そう言いながら触れられた鎖骨に、びりっとした衝撃が走った。からからのはずなのに、水面に走る電撃さながら。穏やかな黒い瞳にぞっとする。
 何度も撫でるその手を、掴まなければならない気がした。
 欲情していたわけじゃない。ただ、あたしにはそうする権利があって、それを今まさに男から渡されたというだけ。あたしが欲しがったわけじゃない。
 男の唇は乾いていたから。
 あたしは水分が足りなくて、あえいだ。
 一緒にいるのに、どうして──。

 ときめくことがなければ自惚れたりしない。自惚れなければ触れたりしない。触れなければ、こんな気持ちにはならなかった。
 これはそんなにふわふわした感情じゃない。ゲンキンって言葉が嫌いなあたしは、それを絶対に認めない。
 これはただの、執着だ。


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