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 くるくるとまわる真っ黒な傘の内側には、いつだって、晴天が広がっている。「水をくっつけたあじさいがきれいだから、梅雨はすき」と笑う彼女は、となりを歩くぼくが水びたしになること知らない。
 じめじめしたこの季節は、ぼくをおぼれさせようと、毎日のように雨を降らせてくる。コンクリートで固めたはずの歩行者道はでこぼこで、たくさんの水たまりが愉快に笑っているみたいだった。こっちにおいで、おぼれてしまえよって、いじわるく。
 そこここに咲くあじさいの花に夢中の彼女は、なんにも知らない。
 この雨はぼくのために降っているのであって、あじさいを飾ったり、それを見た彼女をよろこばせるためにあるものじゃないのに。見とれていたら、おぼれちゃうよ。ぼくがのまれてしまうその前に、一度でいいから、こっちを見てよ。
 そんなものに彼女の気を取られてしまうぼくは、彼女の気を引いた美しいものを受け入れられないぼくは、だから、おぼれそうになる。
「いつまで見てるの」
「もうちょっとー」
 しとしとと降り続く雨の中でなら、ぼくのため息も聞こえないのだろうか。
「あじさいの花ってね、色が変わるんだよー」
 彼女の上にはいつだって、晴天が広がっている。ぼくのおかげだ。ぼくはあじさいだから。彼女に降るはずの雨をぜんぶ、受け止めている。
「青いのも、赤いのも、きれいだねー」
 体が重くて、沈みそう。
「ねえ?」
 やっと振り向いた彼女は笑っていたけれど、その笑顔はぼくに向けられたものじゃなかった。あじさいの七変化を移り気に追いかけて、かえりみようとしない。
「いいなー、家にも植えたいなー」
 言って、あじさいに向き直る。
 なんにも知らない彼女になにかをしてほしいというわけではないし、そのなにかを知ってほしいというわけでもない。ぼくはただ、彼女が楽しいなら、それでいいと思っている。ぼくが一人でずぶ濡れになって、水を溜め込むだけなら、それで彼女が楽しい気持ちでいられるのなら、よろこんで雨を受けるよ。あじさいがきれいだって言うならうなずくし、梅雨がすきだって言うなら散歩にだって付き合う。
 でも、たまに、反対のことを考えちゃうときがあるんだ。彼女をずたずたにして、雨ざらしにしてしまいたい、って。そんなこと。
「あじさいには毒があるんだよ。死んじゃうよ」
 ともだちなのに、すきなはずなのに、大切にできない。
「そうなの?」
 あじさいの花をちょんちょんと突っついて水を跳ねさせていた彼女は、目を見開いた。
「あじさいはたちが悪いよ。ばらは見えるところにとげがあるのに、あじさいは悪いものを隠してる」
「なるほど、だからかー」
 なにかに納得した彼女は、しっかりとぼくに向き直って、笑った。
「あじさいの花言葉」
「……花言葉?」
 そんなものを調べるほど、あじさいがすきなのか。あざけりそうになったぼくは、そんなぼくを正面から見つめる彼女に気がついて、沈みかけたものを引き上げた。
「『あなたは美しいが冷淡だ』」
 すらすらと、頭の中に丸写ししたような言葉を読み上げる。
「あじさいはね、こんなにきれいで強いのに、ろくな花言葉がないんだよ」
 ぼくはあじさいの花言葉なんかに興味はないし、そもそも、きれいだとか強いだとか、思わない。その花言葉があじさいに不似合いとか、そんなことは知らない。でも、あじさいがお気に入りらしい彼女の言葉なら、それはきっとひとつの正しいことなのだと思う。
「『心変わり』とかー、『高慢』とかー」
 黒い傘の内側、広がる晴天がくるくると。
 あなたは美しいが冷淡だ、なんて、美しければそれでいいだけの花にそんな冷淡なことを言ったのは、どこのどいつだ。どうして、美しいだけでがまんできないんだ。そこにあるだけでいいって、よろこんで咲いているだけでいいって、どうして。
 ひとりでおぼれるそのときに、救いがほしいなんて、ぼくは。
「あ、ごめん」
 彼女の声が謝った。
 なにが、と、思ったときにはもう、彼女はずいぶん近くにいた。
「ぬれちゃったね」
 ぼくに降りかかった雨粒を、やさしい手つきで払う。
「傘、ついつい、まわしちゃうんだよねー。気をつけないとって、思ってるんだけど」
 気のおもむくままに深く傷つけてしまいたいなんて考えるぼくを知らない彼女は、どきどきするところまできてしまった。突き放すことも、引きよせることもできるけど、ぼくはただ、やさしい彼女を見ていたかった。
 ああ、思い出した。大切なともだちは、傷つけたりしちゃ、いけない。
「ちょっと長居しすぎたかも。行こっか」
 季節が一巡りしてもぼくは、彼女のとなりを歩くのだろう。あじさいと一緒に水びたしになって、だけど、それは言わないまま。あじさいに向かって笑う彼女を、おぼれそうになりながら、見ていたい。「水をくっつけたあじさいがきれいだから、梅雨はすき」って、ぼくを沈めようとする季節にやさしくしてほしい。
 散歩を再開した彼女とぼくは、水たまりをよけて歩いた。
「あっ、思いついたー」
「……なにを?」
「すてきなあじさいの、すてきな花言葉!」

 冬を越して、毎年、花を咲かせるあじさい。いつかでいいから、ぼくにも花が、咲きますように。






魚の耳」さん提出(2012年4月/あの花に捧ぐ)


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