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字架は要らない


 僕の彼女が吸血鬼に噛まれて死んだ。
 それはあまりにも唐突な出来事で、目を覚ましたばかりの僕は、習慣になっていた起床後のトマトジュースを吐いた。床に飛び散った赤にめまいがする。
 だって僕は昨日の夜、彼女に会ったのだ。
 彼女は黒くて長い髪の毛が美しい女性で、瞳は黒々としたガラス玉のようだった。生命力というものを余すことなく放っていた彼女が、吸血鬼に噛まれて、命を落としただって?
 昨日、笑っている顔を見た。夜風になびく髪に触れた。首筋に口付けた。それなのに。今日は、その首筋に噛みあとが?
 信じられなかった。

 僕は彼女の葬儀へ向かった。
 しかしそれは葬儀というより、彼女が吸血鬼になるのを防ぐための儀式に近かった。ばかみたいにぎゅうぎゅうに箱詰めされたニンニクや、木の杭、恐らくは銀でできた斧が並んでいる。生前の彼女を傷付けようとする者など誰一人としていなかったのに、それは許されないことだったはずなのに、何だ、この様は。
 僕は彼女に杭を打つであろう人物に声を掛けた。彼は初め、訝るように僕を見ていたものの、最後には僕の真剣な瞳にこっくりうなずいた。そうして僕は、彼女に杭を打つという役を得たのだった。
 彼女の心臓に杭を打たねばならぬというのなら、それは僕の役目だと思った。他でもない僕が、彼女の一つきりの心の臓に、優しく優しく、杭を打つ。僕にしかできないことだと思った。
 これから彼女は僕に杭を打たれて、首を切られて、口にニンニクを詰められた上に、その頭部を足元へ移動させられる。吸血鬼に噛まれたばっかりに、美しかった僕の彼女は、そんな仕打ちを受ける。
 左手に木の杭、右手に木製のハンマーを握り込むと、ハンマーと心臓が同化したように、痛みが走った。今も美しい彼女を前に、ちらりと覗いたうなじに残る牙のあとに、どうしようもなく締め付けられる。僕の心臓はもう、動いたりしないのに。
 彼女の胸の上にそっと杭を立てた。優しく優しく、打ち込むのだ。僕だけにできる弔いだ。それだけ信じた。
 でも、杭を打つのに優しくする方法が、僕にはわからなかった。

 吸血鬼に噛まれた彼女にそうすることは義務なのだ。死者は蘇りなどしないのに、彼らはそれを恐れて唱える。
 どうか安らかに眠りたまえ、と。

 それは本当に死者への祈りか? 愚かな人間どもめ。

 そんなものなら、要らないよ。

「おやすみ」

 僕は僕の彼女の胸に、いびつな穴を一つ、あけた。



魚の耳」さん提出(2012年2月/おやすみ)


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