+++ | ナノ

睦花 

 ああすごくきれいだ。
 何もこんなときに彼の美しさを思い出さなくてもいいのに、滲みかけた世界の真ん中でゆっくり笑うから、私はどうしてもきれいだ、きれいだと思ってしまう。何度も、何度も。どうして忘れかけたころに、そのように笑うのですか。
 彼はきっと私が彼の笑顔に魅了されることを知っている。だからこそ、何もこんなときに、というときにだけ、笑うのだ。ああすごくずるい。すごくきれいだ。心は腐りきっているくせに。
「俺、睦花(むつか)のその顔、大好きだ」
 彼は無邪気を装って言う。
「嫌悪感とか殺気がこもった目がたまらない。俺、やっぱり睦花のこと好きだよ」
 もしも、この汚れきった彼をろ過装置でろ過しようとしたなら、恐らく、装置は詰まってだめになる。だって彼は粘土みたいな泥だから。誰もろ過しようとしないし、できない。
 私は仰向けに転がった彼に馬乗りになっているような状態だった。こんなひ弱な私がマウントポジションだなんて、笑える。しかも彼は自ら望んで私の下敷きになっているときた。
 彼の首に両手を添えて軽く圧迫した。苦しいのか、彼の瞳に涙のようなものが浮かんで、ぬらりと光った。元から歪んでいた微笑みがさらに歪む。
 女の力で首が絞められるものか。逃れようと思えば逃れられるものを、そうしない彼は、やはりそこで笑っていた。
 彼は私に嫌いという言葉を使わせたがる。それを知っている私は、だからこそ、その言葉を使わない。耳触りの良い言葉なんて使ってやらない。
 歪んだものを美しいと、きれいだと思うのは、歪んだ者か純粋な者だけだ。だから私は、きっと、歪んでいるのだと思う。そして彼も。
 不意に馬鹿らしくなって手を離すと、彼は素早く起き上がった。肩を掴み、引きずり込むように、私を押し倒す。
「俺はね、見せかけだけの、何もわかってない、そういうふりが大嫌いなんだ」
 私の両手首を掴まえて、おなかのあたりに乗りながら、彼は表情を無くした。
「そういうのってきれいに見えるよね。だから、そういうふりをするんだよね。でもさ、本物ってもっとつらくて、もっと悲しいものだと思うんだよ」
 床は冷たかった。体と一緒に心も冷えていくようだ。
 彼はどうしても私に傷付けてほしいらしいけど、私はもう、傷付きたくなかった。彼を血まみれにするとき、私の手も血まみれになるということが、彼にはわからないのだ。彼は自分の傷に塩を塗ることで手一杯だから。
「ねえ、睦花、聞いてるの?」
 私は表情の無い彼の顔を見上げて、ただ、じわじわと迫る熱について思いを巡らせていた。末恐ろしい。どこまでが真心で、どこからが本能なんだか。
 両手首を掴む彼の手から力が抜けた。
「俺、睦花のその目、嫌いだ」
 好かれようなどとは思っていないよと笑いそうになったところで、私はふと、その言葉の希少性に気が付いた。独り言に返事はいらないと思っていたけど、考え直す。
 自由になった手で彼の背中を掴み、引き寄せた。
「え、」
「気が変わった」
 油断でもしていたのか、ひ弱な私の元に倒れ込んできた彼を抱きしめた。
「睦花……?」
「好きだよ」
 ささやきはどこにも跳ね返らない。それでも、彼は震えた。
 ああくせになる。
 彼の美しさと醜さは、こういうことがあるから、手離すことができないのだ。
「好き」
 彼が私に求める言葉は嫌悪の言葉。彼が私に望むのは、塩と歪みだ。意識的な歪みだ。私はそんなもの、あげないしいらない。
「俺は──俺は、嫌いだ。嫌いだよ、睦花」
 泣きそうな声で私を傷付けようとする彼は、その言葉で、彼自身を傷付けることができない。私を突き放すこともできない。丸裸の、まさに赤子のよう。
「睦花……」
 私が彼に求めるものは、ただの、それでいて揺るがないもの。赤子ならば、親という条件さえあれば、無償で与えてくれるもの。
「愛、してる」
 私の息で、彼は壊れた。


top
 
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -