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触れる


「こんにちは」
「うん、こんにちは。調子はどう?」
「元気だよ」

 お椀の中に残されたれんげには今しがた男がすくったおかゆがだらけている。ベッドの脇に座り込んだままのあたしは小さくなって、そこに溶けていた。遠くの声が体を通り抜ける。
 初めから冷え切っていた。このおかゆも、何もかも。そう考えればいい。
 そもそもあたしは誰の声も聞きたくなかったはずだ。だからこそ、さざめく子守唄を欲しがった。何も聞こえないその中に隠れて、誰もいない場所で、静かに息を止める。そんなことはできないということを、今のあたしは知ってしまったけれど。
 初めから冷え切っていたのだ。この手も、五感も、あたしというものはすべて。口を閉じたそのときから、ひとの温度ではなかった。
「あっ、ねえ、今日はちょっと材料を買ってきたの! 上がってもいいかな?」
 ガサガサと懐かしい音が聞こえてくる。優しくて温かい音。橙色の、音が。
 浮かびそうになった影はぼんやりと不鮮明で、その形をあたしに教えてはくれなかった。何気ないワンシーンはいつだって思い出せるはずのものだったのに、今は水に濡れて、曖昧にふやけてしまっていた。
 あの女、あの男と。
「ごめんね。中に患者さんがいるんだ」
 答えた男の声は無機質だった。意味よりも音として届いたそれは、舌の上を反芻させたところで無味だったけれど、染み込んだものは脳の中枢を麻痺させる。
 やがて、溶けていたはずのあたしがぐづりと煮え立った。余分なものが気化されて、より純粋な「あたし」が成形されていく。
 口を開けて、れんげを握りしめた。

 二言三言やり取りをすると、女は出ていった。また来るねとか、そういう言葉を残して去っていくその姿が可笑しくて、男は笑ったのだろう。
 ベッドのふちに座るあたしの足元でだらけたおかゆ。ベッドに腰掛けながらそれを見下ろしていると、一人になった男が帰ってきた。
 細いシルエットを思い描いてから、ゆっくり顔を上げる。黒いだけの瞳。
「待たせたね」
 かすれた声とその笑顔に応えて、あたしも笑みを浮かべた。
「まずは片付けをしよう。そのあとに診察だ」
 男の口数は昨日ほど多くなかった。盆の前で膝を突いて、ふと動きを止める。
 その一瞬に笑いながらベッドから下りると、男の肩を正面から押してやった。
 曲げられていた長い体が後ろに倒れていく。片手鍋が足に引っ掛かり、冷め切った卵かゆがフローリングの上にぶちまけられた。
 声は上がらなかった。ただ、心臓の一拍めを打ったような鈍い音が響いただけ。
 あたしは仰向けになった男の上にいそいそと乗っかった。まるでひとのように温かくて、心地いい。白い肌と澄んだ瞳にぞっとして、身を乗り出した。
 男は微笑んでいる。あたしはこの微笑みを見たことがある。よく、知っている。
 これはあたしのものだ。あたしだけのもの。きっとそれで正しい。
 正しいはずなのに、そこから動けなかった。
 男も動かなかった。


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