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自惚れる


 目を開けると、見たこともないような白が視界いっぱいに広がっていた。まさに最高の明度。
 ああ、そうか。光だ。光は白いから。あたしのまわりに光がいっぱいあるんだ……。
 どこかから差す光に暖かなブランケット。あたしは重たい頭を左右に動かした。
 右には大きな窓。左には壁。
 ああ、そっか。昨日のあたしは台風の上陸に引き寄せられて、その優しいなきごえにあたしを隠してほしくて、だから迎えにいったんだ。横殴りの雨と吹き荒れる風、わめくようにうねる川。小さなあたしと見えない引力。肺の中の空気が全部入れ替わるみたいで、心地よかった。
 上半身を起こすと、ここがどこだか思い出す。正面にクローゼット。あたしはあたしを救い出した男に連れられて、川沿いのアパートへやってきたのだった。
 まだ、寒気とだるさが残っている。川に飛び込むまで随分雨に濡れたから、風邪を引いたのかもしれない。
 あの男は? あの男も濡れ鼠になっていたはずだ。あたしを追って川に飛び込んだ、あの黒い影。
 疑問と光景を頭に浮かべていると、漂ってくるかおりに気が付いた。ごう、という、低く長い音には聞き覚えがある。
 あたしはブランケットをどけてベッドから下りた。長ったるいズボンを引きずりながら、ベッド一つしか置いていない部屋を出る。
 男はすぐに見つかった。部屋を出てすぐのキッチン。片手鍋を火にかけて、おたまを片手に背中を向けている。髪の毛は昨日と違ってぺったりしていなかったけど、細いシルエットだけは変わらない。
 声を掛けかねて、まじまじ観察していると、男がゆっくり振り向いた。
「おはよう。もうすぐできるから、君はベッドで待っておいで」
 白い顔に爽やかな笑みを浮かべた男は、それだけ言うと、くるりと片手鍋に向き直った。
 あたしは少しだけ身を引いて、男を眺める。
 意識が朦朧としていたとはいえ、連れられるまま、見知らぬ男の住み処で一泊。昨日の記憶はほとんどなかったけれど、信じられないことをした。
 早く出ていかなくては。あたしは玄関へと視線を移した。
「顔を洗うならバスルームでどうぞ」
 掛けられた声にびくりと肩が揺れた。逃げるようにバスルームへ飛び込む。
 びっくりした。
 とにかく顔を洗って気分を落ち着けることにする。蛇口から流れた生ぬるい水と、バスルームの湿ったにおいは、あたしの心をうるおした。きゅ、と栓をひねって水を止めると、涙がぼたりと落ちた。
 この部屋を出ていったあたしは、どこへ行けばいいんだろう。

 とぼとぼとバスルームを出てきたあたしは、玄関ではなく、ベッドが一つきりの部屋に向かった。あたしがいるべき場所はきっと、あそこで合ってる。
 男のいないキッチンを素通りすると、その噂の男はベッドの脇で何かしていた。盆に乗せた片手鍋の中身をお椀に移しているらしい。
 あたしに気が付くと、柔和に微笑んだ。
「さあ、座って。おなか、空いただろう?」
 片手鍋の中身はおかゆだった。卵かゆの上にネギが散らされて、ほかほかと湯気が昇っている。
 言われるまま、その場にすとんと座り込んだ。男はれんげにおかゆをすくい、冷ますように息を吹き掛けると。
「はい」
 そのれんげを突きつけてきた。
 久しぶりに嗅ぐようなにおいの先には男の手があって、その先には腕が伸び、肩口に繋がっている。そこで小首をかしげた男は、れんげを下げて聞いてきた。
「おなかは空いていないのかな?」
 黒い瞳はどこまでも穏やかで、澄んでいたけれど、ぞっとはしない。
 湯気を追って、おかゆに視線を落とす。
 もしかしたらと思った。あたしの鼻は確かに、このにおいを捉えたはずだから。今なら。
「食べたくないのなら、無理に食べなくてもいいんだよ」
 この男の手からだったら。
 その言葉の、後なら。

 リンゴン。
 口を開きかけたそのとき、かすれたようなチャイムの音が部屋に響いた。とても似合いの音だと思ったけど、とても静かに胸がざわめいたのがわかった。
 男はれんげをお椀に置いて、玄関を振り返る。
「患者さんかな。ちょっと行ってくるね」
 やわらかく笑うと立ち上がり、そっと、そちらへ向かった。
 がちゃりと、ノブを回す音。

「やっほー、ハナダくん!」

 それは女の声だった。


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