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ときめく


 泥沼の底で高鳴ったものが何なのか、ゲンキンって言葉が嫌いだったあたしは、それを無視しようとした。
 わかったようなふりをされるのが嫌で、ひとりでいるのが好きで、誰の声も聞きたくなかった。だから、嵐の夜の中、ごうごううねる濁流と一つになろうとしたのだ。耳元で騒ぐ子守唄。その音の中にあたしを隠してほしかった。
 橋の上から身を投げたあたしは、それを一瞬で後悔した。血迷ったんだと思った。だって、あたしにはまだ、まだ、選べる未来があったはずだから。
 濁った水面にどぼんと跳ね上がった水の柱。奇跡的に顔を出すと、黒い影があたしの真上を飛んでいた──。

 目を開けると、髪の毛をぺったり顔に張り付けた男が荒い息をしているところだった。それにしても顔が近い。あたしの鼻先と男の鼻先は今にも触れそうなほどで、しかも男の指先はあたしの顎に添えられていた。
 ざあざあと雨の音。男の目は充血して真っ赤で、泣いていたのかなとぼんやり考えた。
「目が、覚めたんだね……?」
 顎から手を離し、顔も一気に引き離した男は、その代わりにあたしを抱き起こした。何だかとても寒くて震えていると、男は都合よくあたしを抱き寄せた。男も冷たくて震えていた。
「よかった、よかった……! 死んじゃうかと思った……!」
 男がささやく。かすれているけど良い声だなあと、思った。顔を打つ雨の音が遠のく。
 濡れてぺったりとした髪の毛はやや長めだったけど、髭はしっかり剃ってあった。横顔でもわかる、少し痩けた頬の上には優しげな黒い瞳が揺れていた。
 男はしばらくあたしを抱きしめていたけれど、ふと思い出したように、あたしを離した。男にくっついていた部分が外気に触れ、寒さを思い出す。抱き止められていたことに気付いたのはそのときだった。体がだるい。
「今すぐ暖かい場所へ連れていくから。少し我慢していて」
 男の腕が背中と両足の下に回され、あたしはひょいと横抱きされた。嵐に濁った世界がぐらりと傾く。あたしの中の何かが高鳴った気がした。
 男はびちゃびちゃと地面を鳴らしながら歩く。元は白かったと思われるワイシャツは泥水を吸って変色し、男の肌に張り付いていた。どちらかというと、男は痩せていた。色も白く、不健康にも見える。悪天候のせいだろうか……。
 男は川沿いを歩き、霞んだアパートの前で立ち止まった。
「ここが僕の家だよ。二階の隅なんだけど、病院なんだ」
 男はアパートの中に入った。あたしを打っていた雨が止み、さっきより静かになる。男はぺたぺたと階段を上る。どうも裸足らしかった。
「着いたよ」
 下ろされたあたしはよろよろとその扉を見た。緑色に塗られた扉には、覗き穴と郵便受けが付いている。
 男はその緑の扉を開けて、あたしを促した。よろよろと部屋へ入る。
 扉を閉めると男も部屋へ入り、あたしの肩をそっと押した。靴はどこかへいってしまったから、ぐじゅぐじゅの靴下のままフローリングに足を乗せる。左手に簡単なキッチンがあって、右手にはまた扉があった。あたしの脇をすり抜けた男はどちらにも見向きをせず、奥のほうへ進んでいった。
 ついていくと、ここがワンルームのアパートだということがはっきりした。
 男があたしを迎えたその部屋には、フローリングの床に直接置かれた、金属製のベッドが一つ。真っ白なシーツが敷かれたそれは、まさに病院のベッドだった。
「まずは着替えだね……タオルと、はい、これ」
 ぼうっとしていると、クローゼットを開けた男が、タオルと着替えらしきものをあたしに渡した。
「向こうにバスルームがあるから、そこで着替えておいで」
 あたしは言われた通りにバスルームで体を拭いて、髪から水を絞り、渡された衣服に袖を通した。サイズが無茶苦茶だと思ったら、男物のパジャマだった。
 もう本当に限界だと思いながら部屋に戻ると、男もしっかり着替えていて、クローゼットからブランケットを引き出しているところだった。あたしは男を無視して固いベッドに倒れ込む。横になっているほうが楽だった。まぶたが重い。
 何かがふわりと掛けられた。面倒くさくて目をつむっていると、意識が拡散していく。
 最後の最後、おやすみと、かすれた声が耳元でささやいた。


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